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日本的共創マネジメント079:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その 9)~

⑤ -2. 水之巻 : (その 5)

2.武道としての武士道 (014)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 9)
⑤ -2. 水之巻 : (その 5)
 今号では、下記の項目について述べる。
21 : 紅葉の打ち  《紅葉の打と云事》
22 : 太刀に替わる身  《太刀にかはる身と云事》
23 : 打つと当る  《打とあたると云事》
24 : 秋猴の身  《しうこうの身と云事》
25 : 漆膠の身  《しつかうの身と云事》
26 : たけくらべ   《たけくらべと云事》
27 : ねばりをかける  《ねばりをかくると云事》

21 : 紅葉の打ち  《紅葉の打と云事》
紅葉 (こうよう) の打ちというのは、敵の太刀を打ち落し、敵の手から太刀をとり放つという意味である。敵が太刀を構え、打とう、張ろう、受けよう、とする時、こちらは、無念無相の打ち、あるいは石火の打ちなどで、敵の太刀を強く打ち、そのまま撥 (は) ねる気持ちで、刃先をさげたまま 《切先さがりに》 打てば、敵の太刀は必ず落ちるものである。この打ちを鍛練すれば、敵の太刀を打ち落とすことは容易である。
【解説】
 「無念無相の打ち」や「石火の打ち」という言葉を使っているが、両方とも「強く打つ」ということである。強く打って打ち落とす、その太刀が落ちるから「紅葉の打ち」である。

22 : 太刀に替わる身  《太刀にかはる身と云事》
「太刀にかわる身」とは「身にかわる太刀」とも云える。敵を打つ場合には、太刀と身体は、同時 《一度》 には打ち込まない。敵が打ってくる出方 《縁》 に応じて、身体の方を先に打ち出し、太刀は身体とは関係なく打つ 《太刀ハ、身にかまはず打所也》。場合によっては、身体より先に 《身はゆかず》、太刀で打つこともあるが、たいていは身体を先へ打ち込み、太刀は後から打つものである。よくよく吟味して、打ち習うべきである。
【解説】
 身体と太刀の関係について、太刀と身体は、同時には打ち込まない。「太刀にかわる身」と「身にかわる太刀」は同じとある。これは身体と太刀は取り換えが効く存在だということである。太刀が道具だというだけではなく、身体もまた道具だということである。従って、この二つの道具は、連動させてはならないという。

23 : 打つと当る  《打とあたると云事》
「打つ」ということと「当る」ということ、これは別々 《二つ》 のことである。打つというのは、どんな打ち方でも、意識的に 《おもひうけて》、確実に打つということである。当るというのは、たまたま当るという程のことであり、どれほど強く当っても、例えば、敵が即死してしまう程であっても、これは当るということである。敵の手でも足でも、当るというのは、それは当ってから強く打つためである。だから当るというのは、様子をみるという程のこと 《さわるほどの心》 であり、打つというのは、あくまでも意識的に 《心得て》 打つ場合である。よく習得すれば、まったく別のことだとわかる。
【解説】
 目指した通り打撃できるのが「打つ」、偶然にヒットするのが「当る」であり、これは同じことではない。当るは偶然のヒットだから、たとえ敵に致命傷を与えるほどの打撃でも、それは打つではなくあくまでも当るである。当たるという偶然を頼りにした戦法では、生死を掛けた戦いで生き残ることはできない。当たるではなく打つことができるように修練するのが武士の道である。

24 : 秋猴の身  《しうこうの身と云事》
秋猴 (しゅうこう) の身とは、「手を出さぬ」という意味である。敵へ入身 (いりみ) になるとき、敵が打つ前に、こちらの身体を先に敵の懐に入れてしまう。手を出そうとすると、身は退いてしまうので、少しも手を出す心を持たず、素早く全身を敵によせてしまう 《うつり入》 心持である。互いの手がとどく 《うけ合する》 ほどの間合いであれば、身体も入れやすいものである。
【解説】
 秋猴とは「手の短い猿」のこと、秋猴の身とは「手を出さぬ」ということである。敵が打ってくる前に、丸ごと相手の懐へ飛び込み、相手の身体に自分の体を密着させるという戦法を入身という。この入身のポイントは、「手を出さない」ということにある。手を出そうとすると、身体の方は引いてしまう。だから手を出そうと思わずに、無の境地 《心を持たず》 で相手の圏内に飛び込むことが重要である。恐怖心からつい手を出してしまいがちだが、そこを敢えて「手は出すな」ということを、「秋猴の身」という言葉で教える。

25 : 漆膠の身  《しつかうの身と云事》
漆膠 (しっこう) の身とは、入身のとき、「敵にぴったり密着して離れない」ということである。敵の懐に入った時、頭も、身体も、足も、強く密着させるのである。人はだれでも、顔や足は早く入るけれども、身体が退いてしまうものである。敵の身体にこちらの身体をぴったり押し着け、少しも身体の隙間のないように密着するのである。
【解説】
 これも前節と同様、入身のことである。入身をするに、漆 (うるし) や膠 (にかわ) のように、自分の体を相手の体にぴったりと密着させて、くっついて離れない、そういうふうにしろと言うのである。敵に何もさせないというのが、漆膠の入身のポイントである。対戦する敵に入身をするのに、恋人のように離れがたいほど密着した関係を指す。

26 : たけくらべ  《たけくらべと云事》
・ たけ (丈) くらべというのは、どんな場合でも 《いづれにても》 敵へ入り込む時、自分の身体が萎縮しないようにして、足も、腰も、首も伸ばして、強く入り、敵の顔と自分の顔を並べ、背丈を比べて、比べ勝つと思うように、威丈高に 《たけ高く》 なって強く入ることである。そこが肝心である。
【解説】
 これも入身に関する教えである。秋猴の身、漆膠の入身、ときて、丈くらべである。入身のとき、身を屈 (かが) めて入るのではなく、大いに威丈高になって、相手を圧倒しろという。接近戦になると、どうしても身が屈んで萎縮するという防御的になる。そこを、自分の顔を敵の顔にすりつけるようにして、自分を大きく見せ、出来るだけ丈高くなって、気後れする気持ちを振り払えという教えである。

27 : ねばりをかける  《ねばりをかくると云事》
ねばり (粘り) をかけるとは、敵も打ちかけ、自分も打ちかけるときに、自分の太刀を敵が受けたとき、自分の太刀を敵の太刀につけて離れないような心もちで、身を入れていくことをいう。ねばるとは、太刀が容易に離れないようにする心持であり、あまり強すぎない気持で入るべきである。粘りをかけて入る時は、静かに 《心を太刀につけず》 入ってもかまわない。ねばるということと、もつれるということは違う。粘るのは強いが、もつれるのは弱い 《ねばるハ強し、もつるゝハ弱し》。この違い、分別あるべし。
【解説】
 これも入身の方法である。「漆膠の身」と同様、密着して離れないという教えである。漆膠の方は、体を密着させることであったが、ねばりの方は、太刀を相手の太刀に密着させるということである。身体の密着に対して、太刀の密着である。相手の太刀に自分の太刀を接着させて、動きを阻止し、相手の先制を封じる。その隙にすっと入込む。手より先に身を入れるとは違って、手 (太刀) を出してから入る方法である。 《ねばるハ強し、もつるゝハ弱し》 というのは、粘るのは強いが、縺 (もつ) れるのは弱いということである。戦いの主導権は、ねばりをかける方にある。粘っているつもりで、実はたんに縺れているだけのケースもある。この粘ると縺れるの違いを修練して、戦いの主導権を握れという実践的な教えである。

【余話】
 武蔵は、身体と道具 (太刀) は連動させずに使えという。普通に考えれば、道具に習熟するとは、道具を身体の一部、またはその延長として使いこなすことをいう。身体と道具は一体化された運動体として、統合されたものとして使われる。運動のスピードや滑らかさは、身体と道具の一体化によって生まれる。従って、道具を使用するというのは、ある意味で意図と結果のリニアな因果律に従うことである。しかし、武蔵は逆のことをいう。《太刀ハ、身にかまはず打所也》、つまり「太刀は身に構わず打て」という。これは下記のようなことであろう。

身体と道具 (太刀)

 第一の段階は、身体と道具 (太刀) はバラバラな分裂運動をする。道具は身体とは別の、外在的関係にある。自分の意図通りに道具をコントロールできない状態で、偶然に頼る使い方になる。「守破離」でいえば、「守=下手」の状態である。

 第二の段階は、道具 (太刀) に習熟してくると、道具は身体の一部として内在化され、統合運動をする。これは自分の意図通りに道具を使いこなせる状態であり、意図と結果がリニアな因果律に従った運動をする。道具の上達した使い方である。「守破離」でいえば、「破=上手」の状態である。しかし、武蔵はそこに留まらない。

 第三の段階では、統合された運動を再度解体し、もう一度両者は分裂した運動にしてしまう。身体と道具 (太刀) の一体性は解体され、双方がそれぞれに自在な運動になる。太刀が道具だというだけではなく、身体もまた道具だという状態である。従って、この二つの道具は、連動させてはならないという。この分裂運動に習熟すると、意図と結果のリニアな因果関係は切断され、行動以前の意図という内面的なものの消去ということも可能になる。つまり相手にとっては、何の徴候も、何の脈絡もないままに、不意を突かれるということになる。この段階は、守破離の「離=名人」と置き換えることもできる。

 PM論においても、多くは因果律に基づいた、「破」の段階に修練することを求める。つまりはリニアな因果律に基づく、ロジカルで合理的な解法である。しかし、日本的な「守破離」の尺度に照らすと、合理的な因果律を超えた「離=飛躍」の段階があることを知る必要がある。これがイノベーションに繋がる。日本では古よりこの「離=創造」を求めることを「道」としてきたのである。

守破離モデル

これをビジネスシーンに置き換えてみると、既知のセオリーや外部フレームワークに頼っている内は「守」の段階で、与えられたもの (計画・目標) を実行しているに過ぎない。これを試行錯誤し、創意工夫を加えるのが改善活動であり「破」の段階である。更に、独自のセオリーやフレームワークを創造し、自在に操り、独自の価値を創出できるようになるのが「離」の状態である。部下の指導育成においても、「今は守・破・離のいずれの段階にあるのか」を見極めながら対処していけば、適切なコミュニケーションが図れる。逆に、部下からの「破」「離」における価値創出に敏感に反応し、チーム及び組織としての「守破離」に統合するマネジメントが重要になる。これは日本的なマネジメントのエッセンスである。
 日本では武芸に限らず、多くの分野で「道」の一字が加えられる。また「職人芸」や「匠の技」という表現が強調される。これは日本人の行動様式として、日々の活動の裏で「守破離モデル」を回し、無意識の自己実現への思いが貫かられているからであろう。

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