日本的共創マネジメント067:「サムライPM」〜武道と士道の系譜 (織田信長)~
武道と士道の系譜 (その3)
2.武道としての武士道
② 太田牛一『信長公記』(1610頃)
武道と士道の系譜 『甲陽軍鑑』とほぼ同時期、江戸時代初期に著された『信長公記(しんちょうこうき 又は のぶながこうき)』は、織田信長の一代記である。著者の太田牛一は信長の側近くに仕えた家臣であり、史料としての信頼性が高く、信長時代の事情を知るには無くてはならないものとされる。信長の幼少時代から足利義昭を奉じて上洛した1568年(永禄11年)までを首巻とし、上洛から本能寺の変が起きた1582年(天正10年)までの記録が全16巻にまとめられている。信長については、果断にして正義を重んじる性格であり、精力的で多忙、情誼が厚く、道理を重んじる古今無双の英雄として描かれている。
日本の歴史の中で最も華やかなのは戦国時代であると言われる。応仁の乱の混沌の中から、信玄‐信長‐秀吉‐家康とキラ星のごとく英雄が現れ、戦国の大乱を経て、国家が統一されていく。戦略、戦術、陰謀、密約、裏切り、戦いと様々なプログラム & プロジェクト(P2M)が織りなされた。信長は常時10万の大軍を動員できたと言われる。16世紀の世界にそのような大兵力を常備していた国はほとんどない。さらに1000丁を超える鉄砲が戦場で使われたと言われる。これほどのハイテク物量戦も類を見ない。従って戦国時代は、そのスケールと内容において、世界史上に類を見ない壮大なドラマ(シナリオ)が展開された時期と言える。
信長は日本史上空前絶後の天才である。天下統一という目標(プログラム)のためにあらゆる手段を講じ、実行した唯一の男である。「天下を取りたい」と思った武将は数多くいたが、ほとんどの場合ただの夢か妄想であり、若いころから実際にそれを計画し、実行に移すという、途方もない野望と実行力を持った男は信長のみである。秀吉も家康も、信長の存在なくして、独自にあの大業を成し遂げるなど、あり得ないことだった。
信長は革新性や非情さでも知られるが、「尾張の大うつけ」「桶狭間の奇襲」「頭蓋骨の酒杯」「比叡山焼き討ち」「本能寺の変」と、その性格は複雑怪奇、常人の理解を超えている。しかし突出した残虐さを示す一方で、信じられないような慈悲も示したとある。
ある村を通りかかったときに家もなく体も不自由な男をみかけて、「これ(木綿20枚)を売って彼に小屋を作ってやり、飢えないように食べ物を分け与えてくれれば自分はとても嬉しい。」と村人に頼んだという。(信長公記)
欲得づくではない、本気で救おうとしている。しかもその指示は、具体的でこまやかだ。弱者に対する慈悲が見てとれる。「頭蓋骨の酒杯」「比叡山焼き討ち」と同じ人物とは思えない、人間心理の深い謎を垣間見せるエピソードである。
【余話 ②】 織田信長「名言」
稀代のグランドデザイナー(プログラムマネジャ)としての織田信長には、多くの「名言」が残されている。その中から、P2M(プログラム&プロジェクトマネジメント)にも関連しそうなものを掲げると、下記のようなものがある。
・ 天下布武 (てんかふぶ)
天下布武の印判→信長の政策のひとつ、七徳の武をもって天下を治めるという意味。七徳の武とは、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする、の七つを意味し、それら全てを兼ね揃えた者が天下を治めるに相応しいという意味である。徳を以て世を治めるという主旨で、単に武力を意味するものではない。
・ 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」
→人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。
元々は幸若舞の「敦盛」の一節である。「桶狭間の戦い」の出陣前に舞ったと『信長公記』にある。人間界の五十年は天界では一昼夜程の長さでしかなく、まさに夢や幻のようだ。この世に生まれ、滅びぬものなどいない。
・ 「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」
→人は必ず死ぬのだから、しのび草(思い出すためのよすが)に何をしようか、きっとそれを思い出し語ってくれるであろう。 信長が好んだ小唄で、『信長公記』に次ぎのようなエピソードがある。尾張に住む、天沢(てんたく)という天台宗の高僧が、武田信玄と面会した時の事。天沢は信玄に信長の趣味を聞かれ、舞と小唄と答えた。それはどのようなものかと聞かれ、この小唄を答えたとある。
・ 「恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる。」
→生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠る、自惚れる。しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと日々努力する。
・ 「人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん。」
→いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である。当時から能力主義をとっていたことがわかる名言。
・ 「だいたい人は、心と気を働かす事をもって良しとするなり」
→言われたことをやるだけでは不十分で、それ以上のことに気を使えという教訓
・ 「戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。」
→比例するかそうでないかは戦略戦術、つまり自分自身にかかっているのだ。
・ 「理想を持ち、信念に生きよ。」
→理想や信念を見失った者は、戦う前から負けているといえよう。そのような者は廃人と同じだ。
・ 「仕事は探してやるものだ。自分が創り出すものだ。」
→与えられた仕事だけをやるのは雑兵だ。
・ 「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。」
・ 「攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな。」
・ 「器用というのは他人の思惑の逆をする者だ。」
・ 「臆病者の目には、敵は常に大軍に見える。」
・ 「絶対は絶対にない」
・ 「是非に及ばず」
→本能寺の変で、光秀の謀反を知り、吐いた言葉。解釈には複数の説がある。情報が錯そうしており、報告をきいても意味がない。光秀ならさもありなむ(然も有りなむ)。是非を論じている状況にない、つまり戦うしかない。・・・