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日本的共創マネジメント075:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その 5)~

⑤ -2. 水之巻 : (その 1)

2.武道としての武士道 (010)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 5)
⑤ -2. 水之巻 : (その 1)
 「二天一流」について記す。水を手本として、心を水のようにする。水は、容器の形にしたがって四角になったり円形になったりする。水はわずか一滴のこともあれば、広大な海となることもある。一をもって万を知ること、それが兵法の効用である。そこで二天一流のことを、この「水之巻」に記す。
  ( 目次 )
01 : 《水之巻 序》 (水之巻の前文)
02 : 《兵法、心持の事》 (心の持ち方)
03 : 《兵法、身なりの事》 (体の姿勢、目つき・顔つき)
04 : 《兵法の眼付と云事》 (目のくばり方)
05 : 《太刀の持樣の事》 (太刀の持ち方)
06 : 《足つかひの事》 (足の運び方)
07 : 《五方の搆の事 》(五つの構え)
08 : 《太刀の道と云事》 (太刀の道すじ)
09 : 《五つの表、第一の次第の事》 (表第一 中段の構え)
10 : 《表、第二の次第の事》 (表第二 上段の構え)
11 : 《表、第三の次第の事》 (表第三 下段の構え)
12 : 《表、第四の次第の事》 (表第四 左脇の構え)
13 : 《表、第五の次第の事》 (表第五 右脇の構え)
14 : 《有搆無搆の教の事》 (構えあって構えなし)
15 : 《一拍子の打の事 (一つ拍子の打ち)
16 : 《二のこしの拍子の事》 (二つのこしの拍子)
17 : 《無念無相の打と云事》 (無念無相の打ち)
18 : 《流水の打と云事》 (流水の打ち)
19 : 《縁のあたりと云事》 (縁の当り)
20 : 《石火のあたりと云事》 (石火の当り)
21 : 《紅葉の打と云事》 (紅葉の打ち)
22 : 《太刀にかはる身と云事》 (太刀に替わる身)
23 : 《打とあたると云事》 (打つと当るの違い)
24 : 《しうこうの身と云事》 (秋猿<しゅうこう>の身)
25 : 《しつかうの身と云事》 (漆膠<しっこう>の身)
26 : 《たけくらべと云事》 (たけくらべ)
27 : 《ねばりをかくると云事》 (粘りをかける)
28 : 《身のあたりと云事》 (体当たり)
29 : 《三つのうけの事》 (三つの受け)
30 : 《面をさすと云事》 (顔を刺す)
31 : 《心をさすと云事》 (胸を刺す)
32 : 《かつとつと云事》 (喝咄<かつとつ>)
33 : 《はりうけと云事》 (張り受け)
34 : 《多敵の位の事》 (多数と戦う)
35 : 《打あひの利の事》 (打ち合いの利)
36 : 《一つの打ちと云事》 (一つの打ち)
37 : 《直通の位と云事》 (直通<じきづう>の位)
38 : 《水之巻 後書》 (水之巻の後書)

【余話】
 地之巻よりもこの水之巻が先に伝授されたという説もある。その意味で、『五輪書』における入門篇であり、武蔵の兵法の基本コンセプトといえるものである。『戦いの形は水をモデルにすればいい。水の流れは高い所を避けて低い所へと行く。戦いの形も敵の堅固な「実」の部分を避けて隙のある「虚」の部分を攻撃する。水は地形によって流れがきまる。戦いも敵によって勝利がきまる。それゆえ、戦いには定まった勢いなどなく、水には定まった形などない。』 (『孫子』虚実篇<兵の形は水に象る>) を基調にしているといわれる。戦いには固定した定型などないということである。兵法論や戦略論の多くが、フレームワークとして定型化、形式化する傾向にあるのとは趣を異にする。これは机上の理論ではなく、飽くまで、実践の中から、現実・事実により導かれた、超リアリストとしての武蔵の考え方が反映されているからであろう。武蔵は何事につけ、「固縛<囚われ縛られること>」というものを嫌う。
 PMに於いても同様である。固定した定型などない。従って「P2M論」に於いても、机上論ではなく、実践に裏打ちされたものでなければならない。現場・現実・現物に対するリアルな認識が必要である。そこから導かれるものは、武蔵の兵法論と同様、恐らく、水の動きに似た柔軟性、言い換えれば「融通無碍」というもの、が基調になると思われる。

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