日本的共創マネジメント091:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その21)~
⑤ -5. 空之巻 : (その 1)
2.武道としての武士道 (026)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 21)
⑤ -5. 空之巻 : (その 1)
01 : 空を道とし、道を空と見る
二天一流の兵法の道を、空の巻として書きあらわす。空(くう)というは、どんな場合でも、形なきところ、知れざることを、空と見立てるのである。空は無いことである。有るところを知って、無きところを知る、これがすなわち空である。世の中において、空を悪く見れば、物事を弁別できない《わきまえない》のを空と見るが、これは真実の空ではない。すべて迷う心である。兵法の道においても、武士として兵法の道を行うのに、武士のやり方《士の法》を知らないのは、空ということではない。いろいろと迷いがあって、どうしようもないことを、空というけれども、これは真実の空ではない。武士は、兵法の道を確かに覚え、そのほかの武芸によく励み、武士の道にすこしも暗からず、心の迷うところなく、日々刻々に応じて修行を怠らず、心意(しんい)二つの心を磨き、観見(かんけん)二つの眼を研ぎ、少しも曇り無く、一切の迷いの雲の晴れたるところ、それが真実の空だと知るべきである。真実の道を知らない間は、仏の法であれ世俗の法であれ、それぞれ自分は確かな道と思い善きことと思っていても、心の真っ直ぐな道《直道(じきどう)》から世の大きな規準《かね(規矩〕》に照らして見れば、人それぞれの心の偏向《ひいき》目の偏見《歪み》によって、真実の道に背(そむ)いているものである。その意味を知って、真っ直ぐなところを根本とし、真実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに大きいところを思い取って、空を道とし、道を空と見るのである。
空は善有りて悪無し 智は有なり 理は有なり 道は有なり 心は空なり
《空有善無惡 智者有也 理者有也 道者有也 心者空也》
【解説】
五輪書の最終巻はこれだけである。道理を得てしまえば、道理を離れ自由になれる。兵法の道に自然《おのず》と自由があって、自然と奇特《きどく・不思議なほど優れた働き》を得る。空の道とは、自然《おのず》の道、自から《おのずから》の道である。いわゆる無為自然の老荘思想を含んだ、空を語っている。
武蔵はこの序文のみを書いて世を去り、空之巻の大半を空白のまま残した。他の四巻が、序文・本文・後書というかたちであるのに対し、文字通り「空」の巻となった。「五輪書」は未完のまま完となったのである。
【余話】
人間は他人に影響されやすいものである。戦いの空間では、我と敵は対立し合っているが、実は相似の分身として相互に影響し合っている。本質的には同質の空間を構成しているのである。この状態に留まっている限り、敵と我は拮抗する状態になり、勝利を得ることはできない。これに対して武蔵の教えは、この相互分身性の空間を破断することにある。敵もこちらも同じ心持になって、張り合う気持になったら、すぐさまこの気持を捨て去って、まったくちがう別の利で勝つ方法を探るのである。それが、《空の心にして、勝利を得る》ということである。《空の心》とは、この相互分身性の戦闘空間を破断する心である。その場の状況に応じて、臨機応変に変化する、自由自在なゲリラ戦法であるところが五輪書に一貫している。
戦国の世が終わり泰平の世となった江戸時代初期、実践経験を伴わない、常識的で秩序志向の机上の兵法書が幅を利かすようになった。「武」がまさに美化され道徳化されてしまおうとする風潮の中で、そのような流れに抗して、批判の書として著されたのが『五輪書』である。従って、そのスタンスは、秩序空間を破砕し、混乱にもちこみ、混乱のなかから勝利をつかめという、実践に基づくゲリラ戦法である。武蔵は「王道」は語らない。戦いに王道なし、は武蔵に一貫した姿勢である。リアルな戦場では、王道など存在しない。勝つためにはどんな手段でもとる。ルールの無い「なんでもあり」の世界では、ゲリラ的遊撃戦が中心となる。戦いはまさに詐術をもって勝つ、それ自体、反道徳的な行為であったのである。これは『孫子』に依拠しているともいえるが、古来、戦いにおける普遍的なテーゼとして語り継がれてきたものである。
以上で、武道と士道の系譜の中で「武道としての武士道」を終え、次回から「士道としての武士道」について述べる。