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日本的共創マネジメント086:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その16)~

⑤ -3. 火之巻 : (その 5)

2.武道としての武士道 (021)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 16)
⑤ -3. 火之巻 : (その 5)
 今号では、下記の項目について述べる。
19 : 三つの声  《三つの聲と云事》
20 : 間切る  《まぎると云事》
21 : 押しつぶす  《ひしぐと云事》
22 : 山海の替り  《さんかいのかはりと云事》
23 : 底を抜く  《そこをぬくと云事》
24 : 新たになる  《あらたになると云事》

19 : 三つの声  《三つの聲と云事》
 三つの声とは、「初中後の声」といって、時と場所により、声をかけ分けることである。声は勢いであるから、火事や風や波に向かっても声をかけ、こちらの勢いを示す。多人数の戦い《大分の兵法》でも、戦いの最初にかける声は、できるだけ相手を威圧するような大きな声をかけ、戦いの最中の声は、調子を低くし、肚の底から出るような声で攻めたて、勝った後は、勝利を宣言する勝鬨(かちどき)の、大きく強くかける声、これが「三つの声」である。個人の戦い《一分の兵法》でも、敵を動かすために、最初に「えい」と声をかけ、声のあとから太刀を打ち出す。また敵を打ち破った後に声をかけるのは、勝ちを知らせる声である。これを「先後の声」という。ただし太刀を打ち出すと同時に声をかけることはしない。戦いの最中にかける場合は、拍子にのる声を低くかけるのである。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 「初中後」とは、「初め・最中・事後」の三つの局面をいう。その場の状況にしたがって、発声の仕方を変えろという教えである。声を発するのは勢いの表出であるから、声をかけて相手の勢いを鎮めるのである。戦いのはじめと終了後は大きな声で、戦いの最中は大声を出さず、低い、腹の底から出す声である。この「初中後の声」は、集団戦における発声法の基本である。個人の戦い《一分の兵法》では、「先後の声」といって、戦いの初めにかける声は、打つより前に「えい」という声をかけ、その声に相手が反応して動く、その動作に対して太刀を打ち出す。発声と同時に打つのではなく、敵を動かすために、打つと「見せる」フェイントの声である。集団戦であれ個人戦であれ、攻撃の最中には、決して大きく高い発声はしない。戦いの最中に声を出すとすれば、調子を低く下げて腹の底から出す「うむ」というような、自然に出る低い声である。

20 : 間切る  《まぎると云事》
 間切る《まぎる》というのは、一足も退くことを知らず、ジクザグに前進する《まぎり行く》ということである。多人数の戦い《大分の兵法》では、敵が強い時、敵の一方へ攻撃し、敵が崩れたら、それを放置して、また別の強いところにかかる、いわばつづら折りにかかる心持《つゞら折にかゝる心》である。個人の戦い《一分の兵法》でも、多勢を敵にまわして戦うときは、この心持が大切である。あちらこちらで《方々へ》攻撃にかかり、敵が逃げてしまうと、また別の強い方へ攻撃にかかり、敵の拍子を把握して、右、左と、つづら折りの感じで、敵の様子を見ながら攻撃にかかる。そして敵の態勢《位》を把握し、攻撃して行く《打通る》ときには、一歩も引かぬ気持ちで、強くうちこみ、勝利を得るのである。個人戦でも、入身の時に、敵が強い場合には、これと同じ気持である。これをよくよく分別すべし。
【解説】
 強い敵と戦うにはどうするか、という教えである。敵中に侵入して、攻撃しながら、あちらを崩してはこちらを崩しと、敵を崩しながら前進して行く。一直線に進むと、相手が前面に集中してしまうので捗が行かない。そこで、右、左とジグザグに、つづら折り(葛折り)に、攻撃をかけろということである。その様子が、逆風の中、船が風上に向って進む方法に似ていることから、「間切る《まぎる》」という。「間切る《まぎる》」とは、逆風の中ジグザグに帆走するイメージである。

21 : 押しつぶす  《ひしぐと云事》
 押しつぶす《ひしぐ》というのは、敵を弱いものと見なして、こちらは強気で、相手を一気に押しつぶすことである。多人数の戦い《大分の兵法》でも、敵が小人数で軽視できる場合、または敵が大軍であっても、うろたえて《うろめいて》弱気になっているようであれば、はじめから優位に《かしらよりかさをかけて》強く出て、完膚なきまでに押しつぶすのである。ひしぐのが弱ければ、敵が回復する《もてかへす》ことがある。敵をよく把握して《手のうちににぎつて》押しつぶすということをよく理解すべきである。個人の戦い《一分の兵法》でも、自分より弱い相手、または拍子が狂って後退気味《すさりめ》の相手のときは、敵に少しも余裕を与えず、相手と目を合わせないようにして、一気に押しつぶすことが肝要である。敵がまったく立ちあがれないようにする、そこが第一である。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 これも前条からの連続で、強く出て戦う戦法である。押しつぶす《ひしぐ》とは、敵が二度と立ち直れないように、粉砕する《打ちはなす》ことである。そのためには、べたつく心が残らないように、相手と目を見合せてはならないと説く。武士は本質的に殺人を業とする暴力集団であり、無慈悲の心が必要となる。

22 : 山海の替り  《さんかいのかはりと云事》
 山海の替り《さんかいのかはり》というのは、敵と戦っている最中に、同じ事をするのはよくないということである。同じことを二度するのは、しかたがない《是非に及ばず》にしても、三度もしてはならない。敵にわざをしかけて成功しないときは、もう一度同じ攻撃を仕懸けても、その効果がないようであれば、今度は全く別のやり方で、突然に《ぼつと》しかける。それでもまだ捗(はか)がゆかなければ、さらに別の方法をしかけるべきである。敵が「山」と思えば「海」、「海」と思えば「山」と、意表をついてしかける、これが兵法の道である。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 《山海のかはり》というのは、同じ事を度々するなということである。二度目まではやむをえないが、三度もするのは愚である。効果が無いと分かったら、潔く考えを改めて、山と海ほども違う行動に変化しなければならない。《山海のかはり》というのは、敵が「山」と思っていると「海」と仕懸け、「海」と思っていると「山」と仕懸ける、という意外なことを仕懸けるという意味である。

23 : 底を抜く  《そこをぬくと云事》
 底を抜く《そこをぬく》というのは、戦いにおいて、表面上《上ハ》は勝ったと見えても、敵は闘争心を絶やさず、表面上は負けていても心の底《下の心》では負けていないことがある。そのような場合には、こちらはすばやく違った心持ちで、敵の闘争心を根絶やしにし、敵が心底から負けたという気になる《底を抜く》ようにしてしまうことが大事である。底を抜くことは、太刀でも、また身体でも、心でも抜く場合がある。やり方は一通り《一道》ではない。底から崩れた敵には、こちらは心を残す必要はない。そうでないときは、まだ不徹底《残す心》である。逆に言えば、こちらが不徹底であるかぎり、敵は崩れにくいものである。多人数の戦いでも少人数の戦い《大分小分の兵法》でも、底をぬくということを、よくよく鍛練あるべし。
【解説】
 底を抜く《そこをぬく》というのは、敵を徹底的に粉砕するということである。敵が再び立ち直って復活してこないように、心の底まで粉砕すべきという、無慈悲の教えである。《そこをぬく》の反対が《残す心》である。徹底して粉砕しろ《底を抜け》、そうでない場合は、まだ不徹底《残す心》がある。不徹底《残す心》であれば、敵は崩れがたい。

24 : 新たになる  《あらたになると云事》
 新たになる《あらたになる》とは、敵ともつれた状況になって、捗が行かないようなら、それまでの自分の気分を振り捨て、すべてを新しくはじめる気持になって、その新たな拍子をつかんで、勝ちを見いだすことである。新たになることは、どんなときでも、敵と自分がきしむ感じになったと思ったら、すぐさま心を変えて、それまでとはまったく別の戦い方によって勝つようにすべきである《其まゝ心をかへて、各別の利を以て勝べき也》。多人数の戦い《大分の兵法》でも、新になるというところをわきまえることが肝要である。兵法の智力があれば、どこで新たになるかは見えるものである。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 前段の「山海のかわり」同様、変化の戦法である。「新たになる」とは、敵とこちらがきしむ感じになったと思ったら、いつでも、すぐさま気持を変えて、それまでとはまったく別の手段を使って勝つようにする。戦闘において、膠着しそうになったら、さっさと戦術転換しろ、軋轢やもつれにまきこまれて、無駄にエネルギーを消耗するな、そんな暇があったらもっと有効な別の手段を探って戦え、という合理的な教えである。


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