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痛みを伴う「選捨」
今日、日ごろ、ぼくが思っていてこれは言語化してみたいなと思ったことがあります
それが、痛みを伴う選捨…
これが必要じゃないかなと思ったという話です
では、今日もよろしくお願いします
でも、その前にお知らせをお許しください
<お知らせ①>チェーンナーいまだ、旅の途中…
ぼくは、2021年11月、リアル世界でもSNSでも人が自分から離れていく、という恐怖をはっきり感じました
そこから、ぼくは大きなマインドチェンジの旅に出ました
そして、いまだ、旅の途中です
そのマインドチェンジの記録を、前アカウントから数記事抜粋しています
よかったら、お読みください
<お知らせ②>チェーンナーってどんな人?
ぼくの自己紹介です
やっぱりnoteの中のぼく、だけではないリアル世界のぼくのこと…
なぜ、「繋ぐ」のか?
おおきなマインドチェンジ…、ぼくのパラダイムシフトが起きた日
などのお話をしています
ちょっと長いので、何回にかに分けて読んでいただくとありがたいです!
<お知らせ③>チェーンナーラジオ
ぼくは、平日、最寄り駅まで毎朝、自転車10分こぎながら、ラジオ収録をしています
2021年1月から丸3年…、2024年2月から、note同様、新生アカウントになっていますが、基本、平日5日間ラジオでしゃべっています
基本的にラジオでしゃべったことを、文字お越ししてnoteを書いていますので、ある意味、ここがチェーンナーの脳の最前線でもあるわけです
日々の気づきを何とか絞り出しています
よかったら、お聴きください!
では、そろそろ本番です
■痛みを伴う「選捨」
「選捨」
これが、何かと言うと、ぼくら選択という言葉を使います
人生は日々この選択の連続で、選択して選んだものが積み上がっていくと思いがちなんですが、実際この、「何を選ぶか?」というのはすごく大事なんですけども、一方で、「何を捨てるか」というのもすごく大事だと思いました
いや、むしろ、その「捨てるもの」の方が多いわけじゃないですか
選択肢って2者択一なわけじゃない
例えば、10通りの選択肢から1つを選ぶとしたら9個の選択肢を捨てるわけです
何を捨てるか?、この「選捨」というのはすごくぼく大事なんじゃないかなと思ったんです
何が大事か、というとこの選捨、捨てるものの価値とかクオリティを上げるということが、QOL、人生のクオリティを上げることになるんじゃないかなと思ったんですね
つまりぼくらは、選択肢を増やせば増やすほど、選択の機会が増えれば増えるほどレベルアップするとか経験が積めると思っているんですが、価値のない選択肢、捨てる選択肢が多いと、そこまで意味がないんじゃないかな、と思うんです
逆に、捨てる選択肢の価値が高ければ高いほど、選ぶ選択肢の価値はさらに高くなっていく…
その価値ある選択肢の中からぼくらは選んでいったものを積み上げていく…
これが人生のクオリティになると思うんです
捨てた選択肢のクオリティも人生のクオリティに直結する
選択し放題の状況よりも、洗濯の機会が制限されている
そういった場合の方が、捨てる選択肢のクオリティも高まると思ったんですね
具体的に言いましょう
例えば、リアル世界での交流会に参加したいってなった時に、「週7日・1ヶ月30日全部参加できるよ」、という人と「1ヶ月に2回しか参加できない」という人…、この両者がいた場合、一見、30日全部に参加できる方がチャンスもネットワークも広がる、と思うわけですよね
どういった交流会に出ようかなってなった時の選択の機会も30日の方が多いと思います
ぼくも以前はその前者がいいなと思ってたんですよね
羨ましいなって思っていました
ぼくはいろいろな理由からぼくは無分別と言いますか…、すべての機会を提供して交流会に参加をするというようなオープンにしてなくて制限を設けています
そして、気づいたんですよね…ぼくは知らず知らずのうちに、この選択する機会が少ない限られてる…、もっと言うと制約を受けている場合の方が非常に
捨てる方の選択肢のクオリティも上がってくる
と思ったんです
30日全部オープンだった場合、基本的には交流会に参加するとか人に会うとが、飲みに行くということを受けられるわけですよね
そうなってくると、ここの選択肢は、選択肢に並ぶものが、Aという交流会とBという交流会から選ぶ、ではなくなってくると思うんです
Aという交流会と自分のコンディションとか自分の気持ちとか自分のモチベーションとの比較になってくるわけですよね
だからこの交流会とこの交流会のどちらに行かという選択じゃなくて気分が乗らないなどうしよっかな、この交流会ってメリットがあるしなみたいな感じで選ぶようにになってくると思うんですよ
じゃあ、参加しようか、となった時、捨てる選択肢つまり、「選捨」するもの何かというと、単なる自分の気持ちです
交流会に参加するメリットと自分のモチベーションとかめんどくさいといった感情との選択肢の連続があっても…、成長しないと思ったんですね
一方、月1回の交流会しか参加できない、という制約を受けているとしましょう
家庭環境でも、お仕事関係でも、体力的なもの、経済的なものでもいいんですけども、何らかの制約があってフルベットできない、となった時に、Aという交流会とBという交流会とCという交流会…、全員それぞれお世話になっている
でも、選ばなきゃいけない…
その時の状況とか、自分の将来性とか、その時の密度とかいろいろなものを含めて、散々頭を悩ましてAという選択肢を選ぶわけですよね
そうするとBもCも非常にクオリティの高い選択肢なわけです
でもそれを捨てなければならない、これは非常に痛みを伴いますよね
身を切るような血がにじむような思いで捨てなければならない
この捨てた、選捨したもののクオリティの高さ
これが自分をもっともっと高みに行かせてくれると思うんですね
それは交流会に臨む気持ちも変わりますし、お断りする時の気持ちというのも非常に痛みを伴います
だから、参加した交流会ではフルベットしますね
フルベットして、めちゃくちゃ楽しむし、めちゃくちゃ人と話そうとするし、そこでお会いした人全員とその後ワンオンワンでお話をしたいと思う…
それぐらいの思いを持って人と会うということができるのは、むしろ制約を受けている場合、つまり、捨てた選択肢に痛みを伴う、そしてその捨てた選択肢のクオリティがめちゃくちゃ高い、という状況の時です
だからこそ残った選択肢、選んだ選択肢が輝くんだと思いました
痛みを持ってお断りするということの成長のスピードとか感覚というのはなかなか、気づかないと思うんですよね
だって人間は人と会う機会を増やせば増やすほど交流会をに行く選択肢を増やせば増やすほど自分にとってメリット大きいと思っている
しかし、制約があったときの痛みを伴う選捨があった方が、ぼくは大きな成長があると思います
散々悩んだ結果、捨てた選択肢も自分の糧になるんですから
こりゃ成長が違うと思いますよね
様々動いていて様々活動していて様々考え抜いている…
けれどもいまいち突き抜けないという方はもしかすると、ここの選捨…
捨てている選択肢のクオリティをあげるということをやってみるともしかしたら飛躍のきっかけになるんじゃないかなと思いました
ぼくは、この選捨、人と会ったり、交流会に参加することの制約が、もしかしたらぼくをもっともっと高みにあげてくれるんじゃないかなと思っていて、しばらくこの制約を設けたまま動いてみたいなと思いました
何かの参考になったら嬉しいです
・・・
本日のnote
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