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⒋舞台演出の勉強をはじめる。

学生時代の思い出

 今は生まれ育った土地からは遠く離れた古くからの知り合いも、親類縁者いない場所で仕事している。この土地の特徴としては冬が厳しく長い。積雪量も驚くほどだ。除雪車の存在を初めて見たときは少し驚いた。
 雪深い凍結した道路を歩くのは、いまだに慣れないし、実際気を抜くとすっ転んでしまう。今はこのような時期であるので、自宅に篭りこの文章を書いている。筆が進まないことが多いが、書くことの効用として「思考の整理」があり、思考を整理することで、「小さな生きることの肯定感」に到達することができる。舞台演出も6年まえにオペラの作品を自主公演してから、少し機会をなくしている。
むかし大学の学園祭で初めて舞台演出をした。中途半端ではあったけれど、やり終えた後の充実感は強かった。あの時途中で辞めていたら、その後の人生もずいぶん変わったものになったのではないだろうか? 公演自体の質は散々だったと思っているが、稽古のプロセスや上演に向けた調整というものは、興味深くかつ手応えを感じられた。
仕事の「手応え」というのが重要だった。これは舞台演出に限ったことではないと思うが、作品を作り続ける持久力の一つに手応えというものは欠かせないのではないだろうか?監督や、アートディレクターも、舞台演出と同じく何か具体的な作業を行う(絵を描く、演奏する、演じる等)わけではない。そうした作業というものは孤独で、評価というものも作り手本人のモチベーションに必ずしも直結するわけではない。そんな中、自分が本当に納得できて、作品の質に限らず何らかの実感の感じるものを持てたことの意味は大きい。
当時の日藝には「舞台総合研究」という本格的な実習の授業があった。2年生からカリキュラムははじまり、俳優(演技、日舞、洋舞)、装置、照明、演出、教養(戯曲&評論)といった各コース所属者がそれぞれのパートに別れて、一つの演劇作品を年間2回作るものだった。今から考えるとうまくまとまらないなどリスクを抱えながら対応された教授陣と諸先輩方の力添えがあって成立していたのであり、そのことを深く感謝する次第だが(この文章もなかばそのために書いている)舞台の実習は非常に得難い素晴らしい授業だったように思う。 
 集団での作業というものは意見をぶつけ合ったり、何らかのトラブルを回避したり、妥協したりといった様々な要素があるが、結局のところいかに説得するかということよりも、歩調を合わせていくかということが大事だ、ということを学んだ。ただしその中でこちらも譲れない箇所を説明していくということも必要である。今にして思えば影ながら支えている人々のことをもっと積極的に理解していければ。。。という風に考える。同じ年代で、役割によって照度が違うということは、結構つらく感じてしまうから。
 舞台演出の場合はよくいわれることだが、初期に自らのイメージに拘泥することはあまり得策とはいえない。稽古場のコミュニケーションは最も大切にすべきものである。正直なところ今の演出家がどんな風な稽古をしているのかは、わからない。きっと自分にも理解できるところも少なくないと思う。稽古というのはそんなものだと思っている。
 大学の実習を通してすっかり面白さを体験することになったのだが舞台演出というのは、絵画や音楽のように個人で修練できるものではない。もちろん演出プランを推敲したり、見識を広めることは個人でも十分可能だが、俳優と稽古したり、装置や照明、衣装のスタッフと、切磋琢磨し無事幕を開けて大勢の観客に観てもらえて成立する。組織あるいは集団が不可欠であり、継続していくことの難易度は高い。
 大学の演劇学科という、仲間と出会えるもっとも恵まれた環境にいた私にとって、上記の組織あるいは集団を維持する苦労など、少しも理解していなかった。全く取り返しがつかないダメさ加減で、将来的には大きなマイナスだったと思っている。と同時に自分なりにそのあたりの限界を察知し、或る時期を境に公立劇場のマネージメント業務にスイッチしたことは、舞台の仕事を今日までかかわりは変われども継続させることができたのかと思っている。
地域の文化政策を考えていくときに、公立劇場が「拠点」となり活躍することが、行政に求められることが多い。行政は公立劇場が、芸術団体、NPOなどの支援団体と協力して、地域の芸術文化を振興していくことが望ましいことと考えている。「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」には「その他の関係団体とも連携をおこなう」とある。
 公立劇場の性格上地域の芸術団体、支援団体は、施設利用者でありゲストとしての性質上、組織規模が脆弱な支援団体と、行政と密接があり行政職員も出向している財団などの劇場運営団体は、芸術祭など規模な連携イベントにおいて、互助の関係を築き上げることには時間が係るし、大抵が専門性を有する芸術団体の要望を劇場が受け入れる、ということになってしまう。そうなると市民に開かれた文化活動という理想からすこし後退し「芸術団体の監修による成果に乏しい事業」に税金を注ぎ込むというリスクが派生してしまう。
 特に美術や音楽と違い、演劇やダンスの分野は、専門性を持ちながらかつ行政よりでもなく、特定の団体側に寄っていない「中立」のスタンスを持つ個人が参画して、公立劇場を拠点として連携イベントに知恵を出すというのが望ましいのだが、現実的にはそうした人材は、専門性を仕事に生かすことは地方では厳しい現状がある。もしそうした人材が地域で活躍できる場をということになるのであれば、先に紹介した日藝のような、文化芸術を総合的に学習することの出来る大学を作り、芸術系の大学が、地域の公立劇場と共助するしくみこそ、これからの地域の文化政策に求められるのではと考える。
 大学では演出の実習以外にも、世界の演劇史や、概論を学ぶ授業のほかに、特定の戯曲(イプセン「人形の家」、「真夏の夜の夢」)を半年以上かけて研究する授業、能の花伝書や、スタニスラフスキーの演劇書の研究というのを、1年程度かけて行われ当時はそのことに煩わしい思いもしたのだが、今となって振り返ると実に贅沢な時間だったと思っている。10代の頃に演劇の古典について吸収し、考えて自分なりのイメージを持てた。そのことの価値は決して小さくないのではないかと思う。
 舞台演出は、現代の風景をどう切るのか、ということが求められる。演出家は舞台作品を通して、「世界」をどのように見ているのかが問われる。シャープに対象を映す鏡のようなものだ。そのための客観的な視座というのは、日々の生活から得ることになるが、自らの環境の影響は圧倒的であり、そこを俯瞰するのは困難だ。過去の作品を通じて、作者の考え方や時代背景を研究するということは、自らの過去を振り返り分析する術を疑似体験することにも通じる。疑似体験を通じて、現実世界をも俯瞰することが、その気になれば出来るのではと考えるがどうだろうか。
 すぐれた演劇の魅力は、生きることのハードルを疑似体験の力で少し下げてくれるように思う。その価値は計り知れない。優れた戯曲には、作者の世界観が色濃く反映されている。作者の世界観を忠実に表現しつつ、現代に上演することの意義を探る。舞台演出の勉強で私はそのことを学んだ。

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