わたしにとっての埼玉県とは
コロナになって、埼玉県に足を運べなくなってから、はや2ヶ月以上が経った。
あたりまえに、いつでも埼玉は行ける場所だと思ってたから、まさか埼玉に通えない日々がくるなんて思ってもいなかったし、当初はそのことをとても悔しくも思っていた。
あの町に行きたい、あの店に行きたい、あの人に会いたい。埼玉に住んでいたら、近所に住んでいたら、コロナだったとしても埼玉の日常を過ごせていたのに。なんで私の住んでる町は神奈川県なんだろう。そう何度も思っていた。
そう思いながらも、埼玉に関われない日が続く中で、最近はだいぶ埼玉のない日常に慣れてきた気がする。いや、もちろん私のSNSはいつも埼玉のことで、埼玉の人たちの投稿で、埋め尽くされているのだが、良くも悪くも埼玉から少し離れたところで、埼玉を見守れるようになった気がする。
でも、外から見てる感覚ともなんか違う。
そもそもわたしが埼玉を好きな理由はなんなんだろうか。わたしはなぜ、埼玉の人たちといるのが好きなんだろうか。そう考えたときに、日常を一緒に過ごしたいと思う人たちに出会えたからだと気づいた。
そして、わたしはそもそも数年前から心は埼玉にあって、埼玉の特定の町にはたしかに住んではいないが、埼玉県には住んでいるのかもしれないとふと思ったのだ。
なんというか、もう恋愛期はとうに終わってて、いくつかの危機も越えていて、たぶん結婚して数年くらいな感じと言おうか。
埼玉は好きだけど、昔のように好きで好きでたまらなく好きで、という感じではなく、ふつうに好きなんだよね、という何とも言えない表現がしっくりくる。
一般的にみれば、わたしは出身地でもなく住んだこともないので、縁もゆかりもないヨソ者なんだけど、なんていうか、どう考えても私の思考回路や気持ちは住民そのものなのだ。それ以外の何者でもない。と、自分の中では思っている。
今日も、オンラインイベントで移住とか関係人口のはなしになって、都市と田舎のはなしをしていたんだけど、わたしと埼玉の関わりかたは一体なんなんだろうって、分からなくなった。
こういう関係性を現せる言葉は、どこかにないのだろうか?
居住を伴わない、関係性としての、地域との繋がりかた。何となくわたしのなかで、このコロナ禍におけるリアルとオンラインの在り方やそれぞれの価値にも繋がる気がして止まないのだ。
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