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やはりこの世は地獄なのかもしれない

この世は地獄である、という仮説があるらしい。

かくいう私もこの世が地獄であると思っているうちの1人である。


私は大学二年生の頃、某弁当屋鹿屋西原店の横山大輔というじじい店長のモラハラやパワハラに打ちのめされ、体とこころがぶっ壊れる、という現在にまで至る鬱病のトリガーとなる体験をした。

体と心がぶっ壊れたまま大学卒業後にフィットネス企業に就職した私は、すぐあがってしまうようになったバッテリーの如く脆くなってしまい、週40時間程度の労働にも耐え続けることができず、まんまと病状を大幅に悪化させてしまった。

(就職前に治療をすれば良かったのだが、部活をできるだけ休みたくなかったのに加えて、なにより自分が病院でもしうつ病と診断されれば、自分があのクソみたいなジジイ店長に「負けた」ということになると思っていたたため、本格的な治療を在学中にすることができなかった。あきおさんがご存命であったのなら、「この大バカもの」と言われてたかもしれない。【鉄腕DASHネタ】)

その後、私はたまに訪れる大幅な鬱の波と希死念慮と闘いつつも、ほとんどの仕事を制限して一年弱ほど通院しながら実家で療養する、という生活を送った。

現在は、幸いにも自分に合ったお医者さんとの治療のおかげで体調は安定してきおり、パートを始めることができた。とりあえず「実家でニート」というクソみたいな状況は抜け出し、月8〜10万ほどを稼ぎ、定期的に通院をしながら実家で暮らしている。

(しかし実家のローンをいくらか払えているわけではなく、たまにお小遣いをいただいてしまっているし、自分の携帯代、実家の水道光熱費は全て父親が負担しているため、大学卒業後に正社員に従事している一般的な成人男性に比べて、私が少し家族に迷惑をかけてしまっている状況に変わりはない。)



とりあえず生きてて良かったと思う。

とりあえず生きていて欲しかった。

と、自ら命を経ってしまった真面目で朗らかで優しかった高校の頃の友達に言いたい。

その友達は、私が大学四年の卒業式のシーズンに、死んでしまった。

彼は一年浪人したので、彼自身にとっては大学三年の春、ということになる。

彼はどうやら大学に入学してから数年を挟むことなくうつ病が発病し、苦しんでいたようだ。

彼にとっては、この世で生きることがよっぽど苦しかったんだろう。


鬱の波がひどいとき、私は死を考えた。どうやれば死ねるんだろうか。

私も何度も自死を試みたが、包丁で刺したり高いところからとか電車に飛び降りてやろうと考えるが、怖くてできない。臆病でできない。

私のできる「死にごっこ」は、とりあえず息を止めてみて、死にたい気持ちが変わらなければこのまま死ぬまで息を止めることを試みるぐらいだった。

そんな時でも意外と息を止めているのが苦しく、結局大きく息を吸い始めてしまう。

死ぬ勇気がなくて、私はまんまと生き延びてしまったのである。私の最大の欠点の1つである「意気地なし」「臆病」に命を救われたのだった。


そんな何度も自死を思い描いていた私は、彼を凄いと思った。そんな勇気があるのがすごく羨ましい。勇ましい。一番死にたい時に、自らロープを用意してちゃんと実行する勇気を持ち合わせていることが素晴らしい。

一番死にたかった時の私は彼の死にに行ける勇気が羨ましかった。


「死は救済。」

これは、躁鬱を患っていた大学時代の知り合いがよく口にしていた言葉だ。


彼は救済されたのだろうか。彼の家族や友達を悲しませてまでたどり着いた自らの死は、救済と呼べるのだろうか。

まあ、今の私だから言えることだが、死ぬ勇気があるのなら生きる方向に勇気を向けて欲しかったと思う。

(今の私は、主に家族や友達と会うこと、面白い物を見たり、したりすることで、人生を続ける意義を見出せているのでとりあえず今は心配ご無用。)




生きることがいいこと、死ぬことが良からぬ現象であること、そしてこの世界が美しいものであるなら、どうして私や彼のような優しくで真面目で朗らかな人間が、精神を病んであの世に近づかなければならないのか。

この世が美しいものであるならば、彼のような人間が幸せな思いを受けるべきだ。

この世が美しものであるならば、生きていて苦しい人がいるべきではないのだ。

この世が美しいものであるならば、私を限界に追いやった店長などの畜生は報いを受けるべきなはずなのだ(店長はもしかしたらどこかで報いを受けているかもしれないが)。


「人生は素晴らしい」という言葉がちらほらと無責任に出回っているが、

私はどうも、この世は素晴らしいもの、美しいものだと断言することができない。

私はこの世が地獄であると感じざるを得ない。


やはりこの世は地獄なのかもしれない。




仏教では、この世の教えの出発点として、よく「一切皆苦」がとりあげられるようだ。

一切皆苦とは、「人生は思い通りにならない」という意味の言葉である。

このときの「苦」は、単に苦しいという意味だけではなく、「思い通りにならない」という意味も含まれているようで、更にその苦に関して「四苦八苦」と呼ばれる苦しみがあるとされている。


四苦
・死(死んでいく苦しみ)
・病(病気の苦しみ)
・老(老いの苦しみ)
・生(生きる苦しみ)

八苦↓(八と書きつつも4つ)
・五蘊盛苦【ごうんじょうく】(心身を思うようにコントロールできない苦しみ)
・愛別離苦【あいべつりく】(愛する人といつか別れなければならない苦しみ)
・怨憎会苦【おんぞうえく】(怨みや憎しみを持つ人と出会う苦しみ)
・求不得苦【ぐふとっく】(お金や地位や名誉など求めるものが手に入らない苦しみ)

このように仏教における考えでは、この世に対してあまり良い認識をしていないようで、平たく言うと「地獄」と同じような認識をしているようだ。

(宗教学に精通していいれば、これらをもっと解像度高く深掘りや解釈ができるんだろうなあと思う。詳しい人がいたら教えてください。)


このように、2500年程前に開かれた宗教でも、この世を地獄と認識している。

このほかにも、私の考えではあるが、この世が地獄であるという仮説を後押しできそうな考えがいくつか思い浮かんでいるので、列挙していこうと思う。




【この世が地獄である理由①:嫌な奴が長生きしがち】

嫌なやつ、クソ野郎ほど長生きするという話を聞いたことはないだろうか。どこかのコミュニティに属したことがある人なら、この巷に蔓延っている習わし的な話を聞いたことがあるだろう。



日本には、「憎まれっ子世に憚る」ということわざがある。

人の顰蹙を買うような人間は、子供の頃から憎まれっ子と呼ばれてきた人たちで、上手にこの世を渡世間で幅を利かせているものだ、ということである。

(本来このことわざは世間から嫌がられるものは決してなくならないという意味で使われていたそう。)


また中国にも「好人早過世、歹人磨世界」(善人ほど早死にし、悪人ほど長生きして活躍する)ということわざがあり、英語圏でも「 ill weeds grow apace 」(雑草はすぐ伸びる)という表現がある。


全世界では把握しきれないが、少なくともアジア圏や英語圏では、良いやつほど早死にし、嫌な奴ほど生きながらえるという認識が存在しているようだ。


嫌な奴というのは、人の気持ちなんかを気にせず発言をしたり、独りよがりな行動をしたり、あまり人からどう思われようと気にしないなど、人のこころと密接に関係している「ストレス」の溜まるような行動や考え方とは程遠い生き方をしているように感じられる。嫌な奴が長生きするというのは、そういうロジックなのだろう。

しかし、この世界が美しいものであるとするならば(そう思いたい)、なぜ嫌な奴が長く生きれるのだろうか。


本当にこの世界が美しいものであるとするならば、いい奴が長生きをするべきだ。

この世は本当はいいもんじゃないのではないか。


そこで、「天国という場所があり、この世が地獄である」とすると、かなりの辻褄が合う。


まず嫌な奴がこの世で長生きすれば、嫌な奴は「地獄」で過ごす時間がより多くなる。逆にいい奴は「地獄」で過ごす時間が減り、早く「天国」に行ける。

ここで仏教における四苦の1つの「生」(生きる苦しみ)の存在で、説得力が増してくる。

善くない生き方をした嫌な奴は、その業が蓄積され、業を返済するための時間を要するので、地獄であるこの世で過ごす時間が多くなる。逆に、善い生き方をしたいい奴は、背負っていた業を早くに返済できるので、地獄であるこの世で過ごす時間が短くなる、ということではないだろうか。

(余談だが、私の考えでは、この世は地獄で、あの世に関してよくいわれる「天国と地獄」は、「天国と大地獄」なんじゃないかと考えている。「大地獄」は、みんながベタに思い浮かべそうな、閻魔大王とかずっと火炙りにされているとかっていう場所であると思う。死に絶えるほど苦しい世界で、この世、または天国でかなりの罪を犯したり悪いことをした人が、死んだ時に向かう世界だと思っている。「天国」がどういう場所なのかは、後程考えを披露するかもしれない。)



赤ん坊は、母親の胎内から出た時、泣いている。


赤ん坊は、もしかするとこの世が地獄であることを知っていて、自分が地獄に舞い降りて「生」の苦しみを味わい続ければならないことを悟り、泣いているのかもしれない。




【この世が地獄である理由②:美人薄命】

坂井泉水、2007年に病院内での転落により死去。享年40歳。

小林麻央、2017年に乳がんにより死去。享年34歳。

竹内結子、2020年に自死により死去。享年40歳。

神田沙也加、2021年に転落により死去。享年35歳。


芸能界で、綺麗な女優などが若くして命が絶たれてしまうケースは少なくないと私は感じている。


芸能界の厳しさや残酷さは以前から小耳に挟んでおり、過大なストレスを受け取ってしまってしまうことは、やはりメンタル面に影響を及ぼす一因になり得てしまうのだろう。

(有名人の死去を羅列したわけだが、人の死、特に自死はかなりこころにくるものがあるので、ここら辺で休憩を挟むことをお勧めする。筆者は書いてて少しブルーな気持ちにナッチャッタ☆)


もちろん、長年にわたって活躍する綺麗な女優さんやタレントなどの総数は、若くして亡くなってしまった女優さんなどよりも圧倒的に多いことは明白だろうが、美人はやはりその美貌が人々の注目をより集めてしまうことで、性格の悪い話がすぐ蔓延したり、不幸がその身に降りかかった時に目立ってしまうのかもしれない。

美人薄命。英語のことわざでは、「the fairest flowers soonest fade.(最も美しい花は最も早く枯れる)が該当する。

美人薄命という四字熟語は、中国北宋時代の詩人である蘇軾(そしょく)が書いた詩のタイトル、「薄命佳人」が由来とされている。

佳人とは色街の芸妓のことで、歳をとり美貌が薄れてしまった芸妓は身を隠すことが美意識とされていたそう。「薄命佳人」は、誰にも知られず密かに命を終える姿を、綿毛の様に儚いと例えた作品である。

また、昔は美人が病弱だと余計に大事にされ注目されたり、男同士の闘争に巻き込まれて亡くなることが多かったことも、美人薄命がいわれるようになった要因になっているのかもしれない。


それにしても何故、美人が早く死ななければならないのだろうか。これを私はスピリチュアルな観点で考える。


ずばり、「人気なので早く天国にお呼ばれする」のではないかと。

「美人は3日で飽きる」などと言われているが、「顔面の整った女性と顔面が整っているわけではない男性のペア」の総数よりも「顔面が整っているわけではない女性と顔面が整っている男性のペア」の総数の方が圧倒的に少ない気がしていて(あくまでの個人の感想であるが、どこかでこんな調べを行なっていたのを見た記憶がある)、まだまだ男性の美人需要曲線は健在で、これはきっと天国でも同じ価値観なのだろうと考えている。


地獄よりも天国の方が権威の強い世界であると仮定すると、天国に先に行っていた美人好きな人は、地獄であるこの世の美人を呼び寄せてしまうことが可能なのではないか。

この世でまだ業を返済しきれていない美人は、天国からお呼ばれすることで、「飛び級」的な感じで、一気に業を返済して手放すことができ、地獄から脱出できる。そんなシステムなのかもしれない(自分で書いてて相当俺やばいこと言ってんなと思っている最中である)。



以上が、私がこの世が地獄かもしれないと感じでいる理由である。



以前、こんな話を聞いたことがある。

ある男性が車を運転していたら、もらい事故によって重傷を負った。

ふと気がつくと、体が「幽体離脱」的な状態になっていて、ぺしゃんこになった車とその車の中に足が潰れた自分の身体があるという光景を、少し離れた空中から見ていたのだという。

臨死体験みたいなものだ。

すると、先立たれていた身内(誰だったか詳細は忘れた)がそばにおり、「まだ早いからあの体に戻りなさい。」そう言われたという。

じゃあ戻ってみるかー、と自分の身体に戻った途端、

下半身に凄まじいばかりの激痛が走ったそうだ。

生まれながらに持ち合わせた業を、今いっぱい返済してきなさいといわんばかりの現象だなと筆者は感じている。



このように、この世には美しい世界であるとは到底思えない悲惨な体験や地獄のような体験、現象がありふれている。

筆者は、うつ病の病状がなんとか安定し、少し働きながら人生を進めることができている。そして最近、中学高校時代の友達のなかに結婚してきている人がまちまち増えていて(子供も授かっている友達もいる)、そういうライフステージに変化する年齢を迎えているんだな〜としみじみ感じている。

しかし、健常なこころに戻ってふとシラフで考えてみると、一体誰が元精神疾患患者のフリーターをパートナーに選んでくれる人がいるのだろうか。

そんな経済的弱者である私が、資本主義現代の婚活市場で売れ残らないわけがない。


あと6年も経つと私は30歳代に突入する。より身近な周りの人間がどんどん結婚したり子供を授かったりする光景を見ることが増えてくるだろう。

そして社会生活を営んでいるために周りの人間と比較せざるを得ない人間のうちの1人である私は、どんどん置いてけぼりにされている感情を持たざるを得ない状況になってくるだろう。

私には、こういった「地獄」が待っている可能性が十分にある。


しかし、私は大丈夫だ。元からこの世は地獄かもしれないと思っているのだから。

地獄の中でも小さい頃から十分に楽しんできた。地獄の中でも、天国のような楽しいことを見つけて十分に地獄的な思いをすることを避けることができる。


「1人でいる天国よりみんなでいる地獄。」

私には幸いにも家族や友達がいる。地獄の中でも天国の中のようなものを見つけて、その恩恵を受けていくことが十分可能な環境にいる。


これからも四苦八苦を体験すると思うが、楽しいことで四苦を「ハック」するつもりで、生きていきたいと思う。



以下、この世が地獄であると仮定した場合から、様々な疑問を考察して殴り書きしたものである。



【疑問①:事故で亡くなった場合はどう説明するのか】

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