そう、あなたがいなくても世界はいつも通り進んでいく
朝日を見ると憂鬱な気分になる。
平凡すぎる毎日。今日も始まる。
当然すぎる日々、特にどうといって何もない日々を理解できない、いや、理解しようとしない自分がそこにはいる。
いつか、人は死にその人の存在は歴史的活躍をしていない限り記憶として受け継がれることもなく世界の記憶から消される。
今現在生きている人間で、私の祖先がどんな人だったかなんて語れる人間はいないだろう。
いつかは誰の記憶にも残らない存在はただの独りよがりにすぎないと私は思う。
私が明日死んでもいつも通りの朝が来て、人は動き、天気が変わり、また、誰かが死んで生まれただだ時間だけが流れてゆく。
そんな当たり前の中の事実に疑問を持ち、理解できない私。
この文を書き生きてる見えている世界は「本当の世界」なのだろうか?
よく、子供の頃「こんな夢をみたい」、「夢だけでもあの人に会いたい」なんて思ったものだ。
現代人は「夢」という「夢」を見て語る。
「俺は将来〇〇になりたいんだ!」
「絶対、お前のことを幸せにしてみせる!」
なんて、無鉄砲なことを言う。
未来には「嘘」なんてなく、ただ時間に身を任せ時間だけが正解を伝えてくれる。
私たちは「時間」という語りきれない無限の「夢」を永遠に見ているのかもしれない。
この世界は「都合が良すぎる」。いつも通りという、言葉で表せないくらいの日常という日常が進んでいき、誰かの「喜び」とか「悲しみ」とかが交差してて、でもいつかはみんな忘れちゃって、世界の記憶から存在ごと無くなって、結局は「無」しか残らない。
きっと、昨日みた夢もみんな忘れてて、どんどんどんどん記憶から、みんな忘れてって死んだら全てフェイドアウトする。
私たちの日常は「夢」そのもの。
「夢」みたいに何もなかったかのように、全て消えて私たちは「世界の記憶」の片隅ですらない夢。
記憶とか見えている世界とか結局は、私たちが作り出している「夢」で本当は何もなくて「無」だけがそこにはある。
長い長すぎる夢に踊らされる私たちは今日も「夢」を見続ける。
どんなに世界に不幸なことが起こったって「夢」は続くし、失敗しても、ちょっと嬉しいことがあったりする世界でなんとなくいや、なんとなくそれが「夢」で現実で。
毎日、あなたに出会って、お話するそんな何気ないいつも通りな世界に生きてみようかな。