映画ドラキュラZERO感想:父と君主の意地。邦題のB級感は酷い
最近悪魔城ドラキュラ製作者が作成したアクションゲーム「blood staind」をプレイしたおかげで、吸血鬼ものが私の中では熱かった。そんな中鑑賞した「ドラキュラZERO」は、前々から気にはなっていたがタイトルからしてどうせB級何だろうなと遠ざけていた作品だったが、鑑賞し終えてもっと早くに観ておけば良かったと後悔してしまう程の良作だった。ある一点を除いて。
この作品に登場するドラキュラこと「ヴラド・ツェペシュ公」は、モノクロ映画時代に流行った怪物としての吸血鬼では無く、史実を基にした君主としてのヴラド公を強く描写している。少年時代に傭兵として育てられた暗い過去も何もその。小国ワラキアの王として、民と家族をただただ守り続ける事を第一に考える姿は、正に理想的な名君だった。
ヴラド公の俳優ルーク・エヴァンス。最近出演した映画だとワイルドスピードや美女と野獣が有名。
ただの人間から吸血鬼になった理由も、私利私欲の為ではなく国と家族を守る父性愛としての側面が強く、それを裏付ける様に物語中も吸血の誘惑に抗い続け、最終盤のもうどうしようもない展開まで吸血する事は無かった(この吸血自体も望まれてした事である)。
更に言うと、些細な事から劇中に自分が吸血鬼だと領民にバレてしまい、生きながら燃やされてしまうと言う魔女裁判じみた裏切り行為までされて尚、それでも王として民を守る為に数万の軍勢に立ち向かうヴラド公。自分の子供を救い出す為に自らの信条も命さえも投げ出すヴラド公。そして何より力を分け与えた民達が、その力を誤った方面に使い始めようとした事に対して、吸血鬼の力を授けた悪魔と約束した通りに自分で自分の命を絶ったヴラド公。兎に角ヴラド公が格好良過ぎて惚れてしまいそうな映画だ。
自分は悪魔だから、闇に生きる者だから人間とはもう関わり合うことはできない。最後に息子と言う次世代を繋ぐ架け橋を送り出し、自らの力と存在に対しケリを付けた姿からは、父として、人間としての意地を感じ取れた。力とは必ずしもそれ自体が悪では無く、力を用いる人間の心構え自体で悪にも善にも変わる。そんな当たり前だが、生きていて忘れてしまいがちな普遍的な事を思い起こさせてくれた。ありがとうドラキュラZERO。邦題さえどうにかなれば完璧だった作品だと思うよ。
まぁその余韻全部がラスト4、5分でぶっ壊されるけど。
うん。驚くほど壊された。結局ドラキュラは現代までなんやかんや生きていて、あれだけ劇中で妻と子供を愛していたのに適当な女見繕って「君綺麗だね?俺と一緒にお茶しない?」と笑顔で言ってのける爽やかナンパ野郎へと変貌してしまった。この原因は間違いなく続編引いてはこの次の後続として繋がる筈だった「ダークユニバース(2020年現在は頓挫してしまっている)」が関係してあるんだろう。それにしても、もっとやりようは無かったのか。おかげであれだけ劇中で格好良かったヴラド公が、外見は現代風だが中身はうら若き女性の血を狙うステレオタイプに変貌してしまったのが本当にガッカリしてしまった。このラストさえなかったら良い気分で見終わる事が出来たのにと思うと、非常に勿体無い作品だった。
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