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コーヒーと写真とSNS。そして雑多に行き着く。


「これお写真いいですか?」

ある時はシンプルな打ちっぱなしの店内。
ある時は重厚感のある喫茶店の薄暗さ。
華やかなカップ&ソーサーや軽快なデザインのテイクアウトカップ。
ドアの先にはいつも新鮮な景色が広がり、まだ礼儀もわきまえもない10代の学生娘が目をキラキラと輝かせています。「これ、お写真いいですか?」そう言って。


約5年前。カメラ娘、違和感。

5年ほど前の話です。当時学生のだった私。
趣味はもっぱらカフェ巡りと写真を撮ることでした。
初めて一眼カメラを買った高揚感とか、街に越したことで出会うお店の数々に驚きと新鮮な気持ちが相まって、コーヒーを買う度、コーヒーを飲む度随分とたくさんのコーヒーの写真を撮ってきました。
家で飲むときは、机の上や周辺をしっかり整えて、きれいに写真を撮りました。熱心ですね。
カフェに行く度写真におさめて、SNSでの発信はもちろん、自作のフォトアルバムまで作って当時通っていた学校の教室に勝手に常設したり。
特にインスタグラムを写真の発信の場としてよく利用していました。
ブログとはまた違う飲食の何かコンテンツを発信できるというのは、発信することが好きな自分にとっては魅力的でした。

しかし、そんな無敵のティーンエイジャー、礼儀&恐れ知らずのカメラ娘はその後、カメラを持ち歩く生活も、発信の場であるSNSさえも距離を置く事にしたのです。

あんなにカフェとカメラはワンセットで、鼻息荒く写真を撮り続けていた娘はどこに行ったのでしょう。いろいろと理由はあるのですが、その中の一つとして、コーヒー写真をSNSに発信する中でこんな風に思う時期がありました。

「コーヒーを飲む前に写真を撮るとなぜか、飲もうとしているコーヒーの核みたいなものが抜け落ちるような気がする」

根拠もないしそんなふわっとした感じなのだけれど、なぜか私の押すシャッターがその飲み物や食べ物にあった核のようなものを抜き落してしまうという感覚です。
「おいしいはずなのに、何か大事なものをが抜け落ちていく気がする」
じわじわとそんな違和感を覚え始めました。
抜け殻を飲んでいるような、、、。
それからというもの、コーヒーを写真に収めることはだんだんと少なくなり、日常からゆっくりゆっくりとフェードアウトしていきました。

写真という趣味が、生活の楽しみが、なんだか息の詰まる違和感に変わってしまったことにがっくりと落胆して、カメラ娘はSNSを閉じました。


5年後。雑多なコーヒー時間の気付き。


コーヒーの写真が減り5年ほど過ぎて、カメラロールが愛犬ばかりになってきた最近へ場面が移ります。ここ数年続いた感染症の期間も落ち着き、最近はまた人と集まりコーヒーを飲む機会が増えていました。

「コーヒー淹れてさ、持ってきたお菓子食べよっか。」
食後、誰かがだらりとした空気をヨイショと持ち上げるようにそう言って、それこそヨイショと立ちあがり電気ケトルのスイッチを入れます。
みんなで食事をした直後ですから、食器は下げたものの机の上はまだ汚れてたり、雑多な感じです。時には寝起きのパジャマ姿とボサボサ髪、各々好きなようにやっているせいで散らかった部屋の中、おなかいっぱいで気の抜けた顔と会話。そんな中で始まるコーヒー時間が最近の私のコーヒーを飲むときの定番となっていました。

「おしゃれで絵になるコーヒーの時間」のイメージとは少し離れた空間ですよね。言ってしまえば、「今これ写真撮れないな」というわりと雑多なコーヒーの時間なのですから。5年前の彼女なら不服そうにするでしょう。

なのですが、、今の私にはこれが、なんだかとても良かったんです。
ありがたいなぁとしみじみ感じていました。見えている視界は雑多でも安心感がありコーヒーはとてもおいしく感じました。予定調和のない時間は肌感覚としてコーヒーと人の距離が近く温かくしてくれるように感じました。

、、、、、なんというかハッとしました。
「人間味」を感じた瞬間があったのです。
私の中ではその「人間味」こそが、写真にばかり気を取られていたときに抜け落ちたと感じていた「核」なのかなとふと感じました。
5年前の違和感に突然答えのようなものを感じた瞬間でした。
朝焼けや鮮やかな景色と共に答えをひらめく!とかではなく、なんかもう普通に家の中で、、、(笑)

そこがわかると芋づる式につながります。
自分のコーヒー写真に違和感を感じていた時の私は「写真に収められるかどうか」のものさしでコーヒーの時間や空間を判断していたのではないでしょうか。
(実際、私に写真家としての技術はないので、そこを補うには整った空間が必要だったわけです。)
それは、コーヒーを楽しむというよりもコーヒー写真による表現や記録を楽しんでいた面も大きそうですよね。
コーヒーを「記録する」ことに価値を見出していたようです。

ですが、次第に記録に執着する中で無意識に、コーヒーや空間、人(バリスタの方等)を写真のための素材と認識していた部分があったようです。生きていて温度のある人や空間を、まるで温度のないモノのように捉えていたのではないか。
だから、私の写真やコーヒーの時間から人間味が抜け落ちた。でもやはり、肌感覚としてそこに寂しさや虚しさを感じていった。
そんな事が起こっていたように思います。

5年越しの違和感への答え合わせでした。

この経験の流れから意識するようになったのは
「何も記録されないコーヒーの時間を肩の力を抜いて楽しもう。」という感性です。
記録されない時間には、そこにしかない温かさや、魅力、安心感があるのではないかなと思います。そうでないものに価値がないという話ではないですよ。
ただ目の前にあるものを必要以上に特別視もせず、そのまま楽しんでみようという意識が芽生えることになりました。
それに気づいてからは、自身のコーヒーを飲む時間がより、緩やかで癒されるものになったように感じます。


どちらも良い、今の私にちょうどいいを選ぶ。

5年前が悪いことはないし、その中で磨かれるものとか得るものがあったのも本当です。けれど、実際日常はもっと雑多で、コーヒーも意外と雑多に飲むのが楽しいという気付きにもなりました。
もし、何か似たような違和感の中にいたときは、ぜひ、気の許せる人たちと誰にも見せられないようなコーヒー時間を思いっきり楽しんでみてくださいね。
とはいえ、、、これだけ話しておきながら、いまだにカメラで写真は撮ったりします。今も写真は楽しいです。ですが写真を撮る場面やその写真をどう活用するかは変わりました。これはまだうまく話せないですが、いつか言葉にできるようになるといいな。

そんなこんなで初めての文章投稿、長いのに最後まで読んで下さってありがとうございました。
あくまで、私の実体験と気付きのお話ですが、このお話がコーヒーと写真を心から楽しんでいる皆様を傷つけてしまっていたら、本当にごめんなさい。

初手は気合い入っちゃって、ながーい真面目な話でしたが、次からは半分くらいでやっていきたいです。てへへ。



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