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3.11に咲き誇るタンポポ ~玉置浩二が広げる緑あふれる大地~

作品にタイトルをつけるのは、なかなか難しいことなのではないかと思う。多くの楽曲の題には、作中で歌われる歌詞の一部が用いられているけど、どの部分を切り取ってくるかに迷うアーティストは、恐らく多いことだろう。かつて震災が列島を襲った時、ミスターチルドレンは「かぞえうた」という楽曲を、チャリティーで発表した。その「題の付け方・切り取り方」は、じつに鮮やかだったと、いまにして私は思う。
 
さて、私は玉置浩二さんが好きだ。玉置さんの楽曲「田園」の歌詞を読みこんでみると、そのなかに「田園」という単語は含まれない。何度、読み返してみても、それは見つからない。玉置さんがどのような意図で、そうした「題の付け方」をしたのか、私は詳しいことを知らない。それでも歌詞に込められたメッセージ、玉置さんの声調、そしてメロディーラインは、不思議と「田園」を連想させるのだ。
 
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玉置さんは、希望にあふれるだけの楽曲を書くことは少なく、悲しみだけが注ぎ込まれた歌を届けることも多くはない。それは人間の生というものを活写しているのではないだろうか。何度か絶望を味わったからこそ、気付ける歓びはあるだろうし、比喩的に言うならば、何かが洗い流されてしまったあとの荒野には、新しく何かを建て直せる(植え直せる)可能性があるだろう。
 
楽曲「田園」を歌い上げる玉置さんは、次々と悲観的なことを発信する。
 
<<何もできないで>>
<<誰も救えないで>>
<<悲しみひとつもいやせないで>>
 
玉置さんの神髄は、切なくバラードを歌い上げられるところだろう。ただ上記の三つのセンテンスは、いくぶん早口で歌われる。そこには苛立ちや嘆きが込められているはずだ。聴き手を息苦しくさせるほどの、激しい感情の発露だ。それでも玉置さんが、ある意味で「達観」していることが、聴き進めていくうちに分かる。
 
<<生きていくんだ それでいいんだ>>
<<愛はここにある 君はどこへもいけない>>
 
別の場所へは行けないこと。それは取りようによっては、残酷なメッセージである。でも玉置さんは、その人が離れられない「ある場所」に、愛があることを歌ってくれている。羽を持たない私たちは、そして何かしらの責任(あるいは制約)をもつ私たちは、いつでも気ままに持ち場を離れることはできない。それは震災直後、交通網が分断されてしまった「あの時」に限った話ではなく、言うなれば現代人の宿命である。
 
仮に遠くまで旅することができたとしても、あるいは居住地を変えることは叶ったとしても、自分の心から逃れることは(恐らくは)難しい。束の間、気分転換のようなことはできるのだとしても、物理的な故郷からも、心的な出発点とでも呼ぶべき場所からも、完全に逃げ切ることはできない。それは作家の村上春樹さんが、かの名作「海辺のカフカ」で取り上げたテーマである。
 
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楽曲「田園」のなかで、いちばん私が好きなのは、以下のセンテンスだ。
 
<<からのミルクビンに タンポポさすあいつ>>
 
これは何を求めての行為なのだろうか。そして、これは描写なのだろうか、それとも何かの暗喩なのだろうか。それを分かりもしないのに、この部分に惹きつけられる。個人的な解釈を許していただけるなら、ここにはいくらかの寂しさが込められている。「あいつ」は花瓶に高価な花を差そうとはしないのである。<<からのミルクビン>>という、せいぜいリユースされるのがいいところの容器に、野花を飾ろうとするのだ。切ない行為だ。それでも牛乳瓶に黄色い花が飾られているというのは、何だか「絵になる」ように感じられる。絵画的な歌詞。
 
玉置さんは後半部分でも、やはり辛い発信をする。
 
<<ビルに飲み込まれ 街にはじかれて>>
 
これはもしかすると、この社会を生きる人たちが、大なり小なり抱えている思いかもしれない。田舎に暮らす人の前にも、ある意味では「ビル」が立ちふさがっているだろう。人里はなれた場所に住む人も、100パーセントの安息を得られるとは限らないはずで、そういう意味で<<はじかれて>>いるように感じることはあるのではないか。
 
しかしながら玉置さんは、最後の最後に、希望にあふれたセンテンスを歌い上げる。
 
<<みんなここにいる 愛はどこへもいかない>>
 
***
 
牛乳瓶に飾られたタンポポ、それを心のなかでスケッチしてみると、色々な「背景」が思い浮かぶ。様々な境遇にある人の、多様な暮らしぶり、いま身を置いている部屋。そこに吹き込んでくる風、注ぎ込む陽光。それぞれの場所にある「ミルクビン」のことを考えると、はてしなく広がる「田園」が思い浮かんでくる。それは文字通りの田園であり、比喩的な意味での「田園」でもある。田を作り上げる一本ずつの稲は、一名ずつの人間を連想させる。身勝手な解釈かもしれない。それでも、そういった受け止め方を玉置さんが認めてくれるのなら、たしかに「愛」は、どんな場所にでも存在しうるのだと、私には思えてならない。
 
3月11日が近づいている。被害を受けた(文字通りの)田園のことを思うと、胸が痛む。瓦礫に埋もれてしまったタンポポを、想像するのは辛いことだ。被災者が「本当に求めていること」を私は理解できていないし、仮に分かったとしても、それを実行できるか約束などできない。私は「あの瞬間」に無力だったし、それからもずっと微力であったし、今なお大それたことはできない。
 
それでも私たちは、何かしらの空き瓶を探して、そこに気に入ったものを飾ることくらいはできるはずだ。そういう形で、3月11日に祈りを捧げることができたなら、そんなことを、玉置浩二さんを愛聴する人たちが、各地でおこなってくれるなら、ある種の「田園」が広がるのではないだろうか。甘い考えだろうか。
 
<<僕がいるんだ みんないるんだ>>
 
一緒に「田園」を作りませんか。
 
※<<>>内は玉置浩二「田園」の歌詞より引用
※この記事は某誌に寄稿したものを、許可を得てアップするものです