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日本の美意識8 わび

わび

「わび」は、欠けたるもの、粗相なものを愛で、余計なものを削ぎ落とし最小を目指した極限の美意識である。
村田珠光(1422頃~1502)による茶の湯にはじまり、千利休(1522~1591)が完成させたとする侘茶において、わびの精神が確立したとされる。

※ 侘茶という名称は後世の者がつけたもので、この三名は侘茶とは言っていない。また、侘茶があってわびを説いたのでもない。わびの精神を取り入れた茶が侘茶といわれるものであり、いわばわびスタイルのお茶とか、わび流のお茶といったものだろう。



わびの語は古く『万葉集』にみられ、そこでは、満たされない恋の深い嘆きや、疎外感、孤独感などを「侘び」という。平安の貴族社会の中では満たされない恋や生活苦、世界感苦の嘆きを動詞「わぶ」として歌にみられる。

吉村貞司『侘びの造形』淡交社 
今は吾は侘びぞしにける気の緒に思ひし君をゆるさく思うへば 
紀女郎 『万葉集』巻四644 
さ夜中に友呼ぶ千鳥もの念ふと侘び居るときに鳴きつつもとな
  大神女郎 『万葉集』巻四相聞618 


『古今和歌集』においては、「自然界の風物にその思いを託して「わびし」と詠まれる傾向」がでてくる。花鳥風月や景観などの自然に思いを託す傾向は、わびの語に限らず、自然を主観的にとらえるようになったこととも関係があるだろう。

鈴木恵子『利休の茶の湯-本来面目と自刃承諾―』第一部「わび」の概念

わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ
 在原業平朝臣『古今集 巻十八』雑下962
わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ
  小野小町『古今和歌集』雑歌938
山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば
   源宗宇朝臣 『古今和歌集』冬


不足

能楽師の金春禅鳳が書き留めた談話『禅鳳雑談』に珠光の「月も雲間のなきには嫌にて候」という言葉がある
(※)熊倉功夫「第一部 茶」熊倉功夫 井上治『茶と花』山川出版社
また、元ネタは心敬の「雲間の月を見る如くなる句がおもしろく候。八月十五夜の月のようなるは好ましからず候」であるとされる

そこには、珠光が円満具足ではなく、不完全なもの不足なものに美を見出したことがうかがえる。そのようなものが、わびたものである。ただし珠光はそのようなものを「わび」ではなく、「冷え枯れ」や「冷えやせ」という。

不足なものも、それを嘆くこともネガティブであるが、それらが価値のあるものへの転換がおきる。その一因に無常観があると考える。無常観でみた欠ける月や散りゆく桜のような、儚く、なくなるものへの尊さとか愛しさが、不足なもの、欠けたものへ価値をみるようになった。そのような美意識が「わび」であるだろう。

『徒然草』には、不足の美について記される。
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。(中略)
万の事も、始め終りこそをかしけれ。(中略)望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。(後略)。『徒然草』137段

不完全なものや不足のもの、あるいはそこにみる面影の美しさについて記されおり、わびたものに心をよせる姿や、「万の事も、始め終りこそをかしけれ」には、兼好の無常観がみられる。
また、心敬は、『ささめごと』で引用し「まことに艶ふかく覚えたり」と述べる)。

(※)筒井佐和子『「道」としての連歌 ―心敬の連歌論―』
「兼好法師が云ふ、「月花をば目にてのみ見る物かは。(中略)過ぎにしかたを思ふこそ」と書き侍る、まことに艶ふかく覚えたり。『ささめごと』」をあげ、物事には肉眼では見てとることができない面があり、そのようなものへ眼をむけた兼好の記述を「まことに艶ふかく覚えたり」と評しているが、心敬の真意は、「そのようなものに心惹かれてその美しさや味わいを認め、それを記すことのできた兼好のこころをこそ、「艶」なるものとみる。」と述べる。

不完全なものに価値をみいだす姿勢は、永遠や完全を好む西洋に比べて東洋的ナチュラリズが基にあってこその美意識だろう。
日本人は、自然が完璧な姿ではないことを認識しており、不完全な自然の姿を容易く受け入れる。対して西洋的ヒューマニズムでは対峙する自然を受け入れられず、己を守るために強固な壁を造り続けるだろう。そして、壁の中に支配した自然の姿を装飾という形で取り入れたのではないだろうか。例えば、ベルサイユ宮殿(17世紀の造営であり正確な比較にはならないが)の内部や庭園はシンメトリーにつくられ、人工の装飾でうめられている。それらと比べると、わびたものは不完全であり、アシンメトリーであり、簡素で不安定である。

武野紹鴎

珠光の茶を継いだ武野紹鴎(1502~1555)は、定家の歌をあげわびの精神を説いた。
(注) 『南方禄』に紹鴎が定家の歌をあげたとあるが、そもそも『南方禄』は、その記述が利休死後から大分経っていることや、筆者について不明な点も多く、どこまでが史実と一致するものなのかなど、議論がされている。そのため、紹鴎があげた歌ということも真実は如何なるものか分からないのだが、本文では、わびを表した歌であるということに着目して論ずることとする。また、『南方禄』には利休は紹鴎の弟子であるとある点も誤りであるのではとの説(神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』角川選書2005年)があるが、通例に従い、師弟関係であったとする。

見渡せば 花も紅葉もなかりけり 裏の苫屋の秋の夕暮れ 
藤原定家 新古今和歌集 巻四 秋歌上363

この歌からは、秋の夕暮れの中に漁師小屋だけがたつ海辺の情景が浮かぶ。花も紅葉もない寒々とした情景や、粗末な小屋はわびたものであり、そこに思う寂しさも、わびであろう。また、何もない景色に花や紅葉のある面影を浮かべるかもしれない。そこに見える面影は「秋の夕暮れ」という一日が終わろうとする寂し気な言葉に導かれるように、花は散りゆく姿を、紅葉は山々を紅く染めてキラキラしたものではなく、地面に落ちた様子となるのではないだろうか。そのような、足りないものや衰退へむかうものを愛しむのも「わび」なのだろう。


見渡せば 花も紅葉もなかりけり 裏の苫屋の秋の夕暮れ

この歌の解釈をめぐっては、花も紅葉もない寂しい秋の夕暮れという実景をうたったとする斎藤茂吉説と、夕暮れのこの絶景は花も紅葉も問題にならないほど絶景であると観念的な比喩をとる谷鼎説など、解釈が様々ある。
歌を詠むにあたり、定家が『源氏物語』明石の巻の「 はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに、(広々と何物もない海辺だが、かえって春の花や秋の紅葉が盛りである時よりも、ただ何気なく茂っている草の蔭などが、美しい)」を基に光源氏の視点から詠んだ歌ともいわれる。その解釈のうえで、唐木は「源氏により滅んだ平家をかさね「都は浅芽が原に化してしまったといふ感慨がこめられてゐるのかもしれぬ。桜と紅葉を代表的景物としてうたった古今集以来の王朝宮廷の文化は平家の滅亡とともに終わつて、浦の苫屋が秋の夕暮れに乏しい煙をあげてゐる。そこから新しい第一歩を歩みださなければならぬといふ若い定家の「吾事」がここに表明されたのかもしれぬ『日本人の心 上』P161」とし、紹鴎はこの歌をあげることで、立ち上がったばかりの侘茶への自らの気合を重ねたのではないかという。
また、粗末で貧相な浦の苫屋も「わび」の世界を 示すものであろう。そのほかに歌の技法的側面から「わび」をうかがうことが出来る


 紹鴎のわびについて

  心敬法師連歌ノ語曰、連歌ハ枯カシケテ寒カレト云、茶湯ノ果モ其如ク成タキ
  『山上宗二記』

心敬の言葉を示し、「枯カジケテ寒カレ」と表現する、とある。
わびとするものは枯かじけたもの(枯れはててしまったもの)で、そこに寒さ(「冷え」であり「しみじみとした静寂感」と解釈する)があるという。この枯れかじけたものは、何を意味しているのだろうか。

枯レカジケタモノ

中世以降、生と死が隣り合わせの殺伐とした世では、無常観が広まった。そして、その中で求められたものは、そんな世をあらわすような、欠けゆくもの、衰退するもの、あるいはその先の消滅してしまった無なるものであった。 
世の中のあらゆるものを、陽と陰で分けるなら、中世は陰であろう。季節なら秋や冬が陰にあたり、寂、静、清などの、消極的なものや感情も陰に属する。対して、春と夏は陽であり、明、愉、華などの、上昇するような気分が高揚するものや感情が属すると考える。これは、《おいのさか図》にもあったように、春から夏は山を登り、秋から冬は下山する人生にもみられる。そして、中世は特にその秋から冬に属するものが人々の感覚に広く浸透していた。その前の平安王朝では、春から夏が属していたと考える。
紹鴎の「枯かじけたたもの」は、秋冬の属性をもったものの象徴としてあげられたものだろう。そしてそれは、欠けてゆくもの、衰退してゆくもの、という消極的なものであり、そのようなものにしみじみとした静寂感や尊さを感じ「わび」であるとしたと解釈する。
人間であれば老いてゆく姿だが、それは決して老いぼれて死んでゆくだけというネガティブなだけではなく、人生において積んだ経験や知識を蓄えた、若者にはないものがある。金属などの錆びや、使い込まれた道具などは、その変化が味わいとして好まれる。このように、秋から冬に属するものは否定的や消極的なだけではなく、「自ら然る」過程や状態を好ましく感じるのである。

名古屋城本丸御殿上洛殿の障壁画として描かれた狩野探幽《四季花鳥図(雪中梅竹鳥図)》は、襖四面のうち、右面二枚に雪が積もる梅の太枝と笹、周囲を飛び交う鳥、左二枚は大胆な余白とし、わずかなものだけが描かれる。
構図的には大きな余白部分、そして題材は雪景色、薄墨のみの色彩という、かなり寂しい印象だが、金泥を用いることで、大名屋敷にふさわしい華やかさがある。
大きな余白には雪の面影がみえるが、それは誘導として描かれたものが雪景色だからであろう。あるいは、鳥の面影をみるかもしれないが、やはりその鳥は青空に飛び立つ生き生きとしたものではなく、雪の中を飛ぶ静寂がみえる。これらの面影からは、しみじみと清々しく静かな情緒(冷え)が浮かぶ。《四季花鳥図》には、最小限のものだけを描いた画面構成のわびと、雪景色のわび、更に余白から感じる静寂さと、幾重ものわびがみられる。 

利休は、道具や茶室、空間にいたるまで視覚的にわびを示した。また、定家の「見渡せば」の歌に加え藤原家隆(?~1125)の歌をあげた。

花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春をみせばや 
 『壬二集』六百番歌合304

(※)この歌をあげたとする利休については、当時、利休みづからの史料などではないため、ここで考察することは割愛する






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