やまと絵展
盛り沢山で、全部を観るのはかなり労力を要するやまと絵展
しかも、1から4期まで、展示替えがあるので、1回行っただけでは見れないものもあるし、内容の濃さにアタフタして終わってしまう
その楽しみ方は、千差万別 人それぞれですが、私はこんな視点で見た。というのをあげたいと思います。
(これからですと、3期、4期の展示になるので、それに合わせるものをのせます)
やまと絵展は、トーハクの平成館二階の全フロアで展示されています
先ず入って、この展示の趣旨などをザザッと読む。どんな展示もそうですが、ここで、主催者が何を見せたいのか、何となく頭に入れておくと、その展示がより充実したものになります
入って、最初の絵は
やまと絵の、説話画(ストーリーがある説明的な絵)として、現存最古ともされる絵です
この絵は、ここでじっくりみるのは、なかなか難しい。ストーリーに沿って絵が進んでいないし、褪色や剥落もあるし、肉眼でみるには、ちょっと労力もいるので、「ああ、やまと絵って、こんな感じなんだあ」ぐらいに留めてみます。よーくみると、四季が描かれて、場面の区切りに、雲を効果的に使っているなあ、とか、ざっくりそんな感じです
この屏風が、どーーーんと
この屏風に関しては、謎が多く、作者についてやモチーフについてなど、様々な考察がされています。ここで絵のウンチクはしません。ここでみるべきは、室町時代のやまと絵って、こんな感じなんだ。ということ。
山や浜に描かれた木々の感じとか、なだらかな山の形とか、四季が、一双の屏風に全て描かれることとか(四季を敏感に察知してあらわすのは、日本人の得意とするところ)。
ただ、通常、日本の絵は、右から左へと季節も時間も流れますが、この屏風では、右から春、夏、冬、秋になっています。これは、屏風を立体にして、波が描かれたあたりに自分が立ったらと考えると分かるのですが、陰陽五行の方角と季節をあらわしています。陰陽五行では、東に春、南に夏、西に秋、北に冬があたるので、この屏風でも、その配置となっているのです。
また、春と夏の間に金の太陽、冬と秋の間に銀の月が描かれて、いちにちの循環、一年の循環を感じることができます
ちょっとそれましたが、この、優しい雰囲気の線や、グラデーションで描かれた山々の彩色など、やまと絵っぽさが充分にでた屏風を見て、隣の絵をみます
こっちは、中国風味バリバリの屏風(漢画)です。
やまと絵と比べると、荒々しいっていうか、雰囲気も描き方も全然違う。屏風を広げたときに両脇に重心を置くように描くのも漢画の特徴ですし、山肌とか岩肌の、ガツガツした描き方とかも、やまと絵とは全然違います。
そして、複雑にグネグネさせた木々の枝や幹(特に雪舟はくどいですが)も、やまと絵の優しい穏やかな感じは無い
ここでは、となり合う2点の屏風を比べて、やまと絵と漢画をじっくり比較して、その違いを自分で見つけます。
やまと絵と漢画の違いを、何となくつかめたら、移動です
途中途中にある展示は、気になるものがあったら見れば良いぐらいの軽い気持ちで、進みます
途中で、鎌倉時代の写本ですが『権記』の「倭絵四尺屏風」というのを、通りがかりにみます
「やまと絵」という言葉が、最初に確認出来る史料が『権記』になります。オリジナルは、藤原行成が999年に記しました
藤原行成はマンガの『うた恋』で、清少納言とのカップリングで描かれてる人です
。つまり、その頃には「やまと絵」というジャンルが出来ていて、呼び方もあったことがわかります
通りすがりに気になるものを見ながら、自分なりの「やまと絵」の型を磨きます。
と言っても、会場中に『源氏物語絵巻』や『鳥獣戯画』『信貴山縁起絵巻』などなど、国宝、重要文化財などが並んでいるので、ついついじっくり見たくなります。
今回の展示でみるべきポイントは、「やまと絵」ということを念頭に置いて、個々の作品をじっくりみて考察するのはおいておいて、自分なりの「やまと絵」フォーマットをまとめて行きます。
だから、みるときも、やまと絵らしさが出てると思う部分を重点的にみてまわります。
平家納経とかも、キラキラして、隅から隅まで、いつまでもみていたくなります。が、、、文字を書くところにまで装飾して、その手を抜かないっていうか相手(この場合は仏とか厳島神社)への心配りが、すごいなーとか、あまり奥行きを感じさせない、2次元的な描き方とか、やまと絵っぽいな〜
ぐらいに留めて、先へ進みます
《地獄草紙》や《病草紙》などが並ぶエリアも、ささっと
個人的には、この手の絵は、大好きです。
幼い頃、初めて地獄絵図を見たとき、衝撃的すぎて、夜も寝られなくなって以来、地獄モノに、ひかれます。また、以前、史料でみる中世の病 っていう授業を受けて、病草紙に出てくる症状が、現代でいうアレとかソレだろうと知って、楽しくて楽しくて。
ですが、今回の展示では、じっくり見ずに。みるなら、一緒に描かれる植物に、こういう絵は、たいてい枯れモノだなぁとか、やっぱ漢画みたいな複雑な奥行き感はない、二次元的な描き方だな〜ぐらいに留めて、先へ進みます。
途中の絵巻や軸など、時代を追うごとに、やまと絵って、ちょっとづつ変わってるんだなあ。と、自分なりのやまと絵フォーマットを更新します
第二会場へ移動する途中に、物販コーナーがあります。ここで、図録を買います。
今回の図録は、ボリュームたっぷりで、重いです。図録って、家に帰ってしまうと、あまり開かずに終わってしまうことが多い。実物を見てる時に、もうちょっと詳しく知りたい。とか思って、図録を買っても、後になると、そんなことすっかり忘れてたりするので、出来れば、その場で確認とかできるように、重い図録を抱えて、その都度見ながら進むのが良いと思います。と言っても、混雑した会場で、立ち止まって、図録をのんびり見てるのは、ちょっと迷惑なので、周りをよく見て、広げます。
図録という、最強ガイドブックを手に、第二会場へ
そして、第3章第3節の和漢の混合と融合のコーナー
作者は、印がありますが、読めない漢字です。
ここまで、ずっと、自分のやまと絵フォーマットを更新してきて、この屏風の前で
これは、漢画要素が強い。と
屏風の両脇に重心をおく構図は、雪舟の《四季花鳥図屏風)に共通します
岩のザクザクした描き方や、入り組んだモチーフ、複雑な枝ぶりなど、ここまで更新してきた、自分なりのやまと絵フォーマットとは違うものがあることに、気がつきます。
展覧会終盤のここで、あらためて漢画要素たっぷりな絵を持ってくるとは!
ここで、あらためて、ここまでのやまと絵の流れを考えてみると
日本の絵画技法は恐らく中国などの大陸から伝えられたものでしょう。
それらを基にした絵は、はじめにみた《聖徳太子絵伝》以前にも、もちろん描かれています。でも、それらは、中国色の強いもので、それを「唐絵」と呼びます。やがて、唐絵は、日本の中でリノベーションされ、「やまと絵」が出来ます。やまとは、奈良あたりの呼び名です。それが、時間を経て、やまと=日本 と認識されるようになりました。
そんなやまと絵の現存最古のものが《聖徳太子絵伝》です。
リノベーションされ生まれたやまと絵は、平安貴族らの邸宅を彩ったり、和歌を読む題材になったり、絵巻物として描かれたりして、更に発展します。それらを描いたのは、宮廷絵師といった者達です
一方、鎌倉時代、禅宗とともに、あらたに、中国から最新の絵画が入ってきます。
それまでも、大陸から色々入ってきていましたが、いかんせん日本は海を越えなければ、他国と交流出来ない立地ということもあり、東の果ての離島のため、大国からの関心も薄く、大量に、瞬時に情報がくることがなく、入ってきた少ない情報を、国内で昇華することをくり返していました。
そこへ、あらたに入ってきた情報(漢画)に、漢画ブームがおきます。特に、墨だけで描かれる山水画(山水画は、理想や妄想の風景を描くもので、実在の風景ではありません)は、禅宗寺院などで好まれました。また、その頃の漢画の題材も、中国の古事や詩、禅宗のおしえなど、大陸由来のものが中心です。
室町時代には、明兆や雪舟など、有名な漢画の水墨画が多くありますが、それまでのやまと絵系も、引き続きあります。帝の周りの貴族らは、変わらずやまと絵を描かせ続けてゆきますし、足利将軍家では、やまと絵を描く「土佐派」が重用されました。この土佐派は、元を辿ると、平安の頃にあった宮廷絵師の職にあった者です
ということで、室町時代は、やまと絵と漢画の2大系統が、それそれに描かれていたということになります。
展覧会冒頭に、同時代の屏風《日月四季山水図屏風》と《四季花鳥図》を並べたのは、そんなことも意図していたのかもしれません。
足利政権が終わる頃、あらたな絵師集団の、狩野派が出てきます。
狩野元信は狩野派の2代目です
元信は漢画系の絵を描きます。ガツガツした岩肌とか、とても雪舟ぽい。松岡の葉も、ウニみたいで雪舟ぽいし、枝のグネグネした感じも、とても雪舟ぽい。雪舟ぽいというのは、漢画要素が強いということです。
少しそれますが、雪舟や、明兆は、個人的に日本のバロック画家だと考えます。バロックとは、「歪んだ真珠」という意味で西洋の芸術では、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられます(Wikipedia)
さて、漢画要素が強い絵ですが、この雲、よーくみると、入道雲みたいなモコモコで、風景の一部というより、場面転換に出てくる、あの雲?では?
そうみると、この絵の雲は、風景としてみる前後左右に不自然なつながりになってしまう、バランスの悪さが出てくる雲のようで、いわゆる、風景としての雲とは違うようです。
場面転換に、雲を用いるのは、やまと絵の技法です。
はじめにみた《聖徳太子絵伝》はじめ、ここまでずっとみてきた絵巻ものに、沢山出てきています。
狩野元信は、自分の系統の漢画に、やまと絵をミックスさせて、狩野派の基礎をつくったのです!
一説には、元信は、やまと絵を描き、自らもその技術を持った土佐派の娘と結婚して、やまと絵のノウハウを身につけたともいわれています。
今まで、別々のものだったやまと絵と漢画が、ここで、リノベーションされて、あらたな絵のあり方が誕生したのです。
その後、孫の永徳は信長や秀吉に重用され、狩野派の絵というのを確固たるものにしました。永徳は、お祖父さん(元信)の漢画と、お祖母さんのやまと絵をしっかり受け継いだ、ハイブリッド絵師というわけです
やまと絵展は、こうしてあらたな絵の型が出てきたところで終わっています。
最後の第4章は やまと絵と四季
として、やまと絵には、四季をとり入れることが、よても大きな要素である。というような屏風で終わりです。
《浜松図屏風》右隻の、風に揺れる新緑の柳に合わせて体をちょちょゆらしたり、夏の浜辺を眺めたり、秋の草花の間を飛び交う鳥になった気持ちで、秋草をみたり、
なんとなくお穏やかな気持ちになってお終いです
個人的には、「だから、日本人て、何でそんなに四季の移り変わりに敏感で、それを楽しむのか?」と、もうちょっと深掘りした意見を聞きたいのですが、それを考える余韻を持たせるのも日本的というか、やまとぽさなのでしょう。
と、私の楽しみ方を、長々とnoteしました。
お付き合いいただきありがとうございます。
これは、あくまで、私個人の楽しみ方と個人的感想です。ご了承ください
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