逡巡
人生にはさまざまなパスが無数に存在し、何かを選択するその度に新しいパスが現れ、さらなる選択を求められる。その繰り返しが人生をつくる。
即断すべきところ、熟慮して決断すべきところ。
それなりに生きていれば、「即断」すべきなのか、「熟慮」すべきなのか、その点においては、おおよそ体感的にどちらを選ぶべきかは間違わない。仮に間違っていたとしても、多少の痛みや反省を伴う程度であり、いくらでもリカバリー可能なものだ。
と、思っていた。
「得体の知れない」いや、何かしらで見聞きはしており知っていたはずのもの。だが実体験としては未知なるもの。そういうものにはじめて相対した時に、それなりに「熟慮」したつもりが、実は迷った挙句に決断を下すことができず、判断を先延ばしにしていただけであったという悲劇的な事実に、じわじわと、そして確実に気付かされる。
ただの経験不足の上に覆い被せられた見えない傲慢さ、自分に対する根拠のない、そして絶大なる信頼。
そんな時分の判断を、とうの昔に忘れていた頃に、改めて新たな非常に困難な判断を要求されるパスと相対することになる。新たに要求された問いに対して、その瞬間は「即断」したつもりが、残された選択肢が、それただ一つしかなかったというリアルを受け入れるのにはそれなりの時間が必要だ。
将棋でいえば、自玉の「詰み」を確信したのか、あるいは、自玉にかかった「必至」に、もがく状況か。何十手先であろうと、詰みならば、潔く「参りました」と深々と頭を下げるべきではあるが、そこまで読み切れるほど修練は重ねていないし、読み切れる範囲が必至までであれば、次の一手次第で、状況はいかようにでも展開できる。
それが人生が人生たる所以であり、面白さでもある。
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