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東京オリンピックで槍投げ選手が記録を出すよりも簡単なお話

世の中、新型コロナウイルスの話題で持ちきりだ。

2021オリンピック・パラリンピックは、本当に東京で開催されるのだろうか。

槍投げ選手が東京の地で、重い槍を持って記録を出すことは実現可能なのだろうか。


そんなどうでもいいことを考えながら、ただただ代り映えのしない毎日を送っている、私の脳内を少し整理しておきたい。


なぜならとても暇だから(笑)


結論から言おう。

代り映えのしない生活の中で、少しだけ変わったことがある。

3年8か月付き合っていた彼女と別れることにした。

つい数日前の話である。


友人の多くが結婚したり出産したり、どんどん大人になっていく中、3年半以上ぶりにフリーになったのだ。

別れた理由について細かく書くつもりはない。

別に彼女が間違っていた訳でもなく、単純に私と考え方が合わなかっただけである。


さて、そもそも恋愛において大切なこととは何だろう。

相手に求める条件について誰しもが考えたことがあるだろう。

人それぞれの考えがあるだろうが、私は今回改めて気づきがあった。


一番大切なのは、『思いやり』というものを理解していて、そして行動に移せることである、と。


前置きがだいぶ長くなってしまったが、今回はこの『思いやり』について考えたい。


『思いやり』と似たようなものとして『やさしさ』を挙げる人がいるのではないだろうか。

ただし、両者には大きく違いがあると考えている。


少し、例え話をしよう。

今まさに、一雨降りそうな雲行きの午後18時。「そろそろ最寄りつくよ~」と彼女からLINEがくる。たまたま仕事が休みで、家で時間を持て余していたあなたには、次の3つの選択肢があるとしたい。

A:LINEを無視してゲームをする

B:「傘忘れたから駅まで迎えにきて」と彼女から追加の連絡がきて、駅まで向かう

C:雨が降り出しそうなことに気づいて、傘を持って駅に向かう


言わずもがな A は話にならないが、B はどうだろう。

B だって十分相当優しい。断る男性もきっと存在する中、迎えに来てくれる彼氏は自慢できる男性だろう。

ただ、C はもっと優しい。

そして、私の考える『思いやり』とは C であり、B ではない。


『思いやり』の中に「やさしさ」は含まれているかもしれないが、「やさしさ」の中に必ずしも『思いやり』が含まれているとは限らない。

両者の間に存在する大きな違いとは、「相手に言われてから行動したか、それとも自ら考えて行動したか」である。

そして、さらに言えば、迎えに行くか行かないか自体は正直どうでもいい。

「雨降りそうだけど傘持ってる?迎え行こうか?」と返信するだけでも十分だと思う。

その1言があるかないかに、天と地ほどの違いがあるのである。


つまり、『思いやり』とは相手を想っているからこそ発揮できる『想像力』の1種なのである。

雨に降られたら風邪をひくかも、焦って走ったら転んでケガしちゃうかも、と想像して傘を持っていく行為であり、持っていこうとする姿勢そのものなのである。


どこからか、そんなこと考えながら恋愛してるの?と言われ兼ねないが、そんなことを考えながら恋愛をしているアホな乙女男子なのです(笑)

好きだったら、自分と同じように相手のことを考え、想うもんでしょ?と当たり前のように考えている乙女男子なのです。

世の中の乙女に失礼か、申し訳ございません。


話を戻そう。。。

今回、彼女とお別れすることにした私は、この「思いやり」が感じられなかったという理由で、別れを決断をすることとなった。

実際のところ、キッカケはしょーもない話であることを自覚していたが、私は思いやりがないと感じたエピソードをいくつか挙げ、些細な不満を伝えた。

「気持ちは分かったけど、どうしてほしいの?」と聞かれた私は、「こういう気持ちになってたんだということを知っててほしい」と伝えた。

この段階では、このまま付き合い続けて、いずれ結婚なんかも考えられると本気で思っていた。

しかし、彼女は「それじゃわからん、何を努力したらいいの?」と続けた。


正直、渋った。

「思いやりをもう少し持ってほしい」とは、答えたくなかったからだ。

でも答えるしかなかった。


そう答えたあとに「努力する」と言われた私は、心の中で何かが崩れていくのを感じた。


「思いやりをもって」と言われてから抱き始めた『思いやり』は、「思いやり」の仮面をかぶった「やさしさ」でしかないと気づいたのだ。

思いやりを持つということは努力するしないの話ではないのである。


「あーそうか、彼氏はこういう風に感じることがあるんだ」と気づいた上で、想像力をもう少し働かせられるようになってほしかった。

迎えに来てくれないという不満を聞いて、雨が降り出しそうな日に、傘を持って駅まで迎えに来てくれるようにはなるかもしれないが、お迎えに行こうか?と事前に連絡をくれるようにはならないかもしれない。

傘を持って迎えにきたかどうかにしか重きを置けない内は、思いやりの「お」の字も理解できていないのだろうと考えてしまったのだ。

迎えに来て欲しかった訳ではなくて、天と地ほどの違いを生む1言が欲しかったのだ。

まして、全然別の場面だったら、例えば彼氏がソファで寝落ちしてても、毛布の1枚もかけてはくれないのじゃなかろうか、そう感じたのである。


仮に、期待通りに『思いやりの気持ち』を持ってもらえたとしても、「結局それは俺に言われたからやっていることで、本当はなんとも想ってないんじゃないの?」と自分が考えてしまいそうだった。

事実がどうであれ、そう考えてしまいそうなこと自体にこの先耐えられる気がせず、別れることを決断した。


もう一度考えたい。そもそも恋愛において大切なこととは何だろう。

『思いやり』というものを理解していて、そして行動に移せることである。


ここまで言えば、共感してくれる人も出てくるのではないだろうか。

『思いやり』とは『想像力』であり、相手のことを考えて、相手の気持ちを想像して、自分の考えや行動を決める力である。

極論、付き合っていく中で発生する多くの些細な問題は、お互いに思いやりながら、話し合って着地点を決めていけばいいだけの話なのである。


夫婦生活においても、お互いに『思いやり』の気持ちを持つことが大切なのではないだろうか。

結婚したことないから、知らんけど。


もちろん、間違ったベクトルでの『想像』や、行き過ぎた『思いやり』には注意したい。
きっと、人はそれを『有難迷惑』と呼ぶのだろう。

相手の気持ちを必要十分に想像するには、相手がどういう人で、どういう時にどう考えるのかを、ある程度把握しておく必要がある。
迎えにきてくれる暇があったら、皿でも洗っててほしいと思われるかもしれないからだ。

そのためには、多くの時間を共有して、相手を知ることが必要なのである。


話は変わるが、マッチングアプリで出会った異性の気持ちは、仮に付き合うまでの間に理解できるものなのだろうか。
付き合うこと自体が目的の人が多そう(勝手なイメージ)だ。

きっとそんなに待ってくれるものではないだろう。一切やったことないから知らんけど。

そういうわけで、どれだけ出会いがないとしても、マッチングアプリだけはやろうと思えない。

果たして、言うて出会いも全くない私に、今後新たな恋愛はできるのだろうか。



さて、ここまでで、暇だった時間を2時間つぶすことができた。やったー!

ここまで読んでくれたそこのあなた、ありがとうございました。

だいぶ暇ですね?仲良くなれそうですね??


赤の他人のことまで思いやれとは、さすがに思いません。

隣にいる大事な人のために、
これから出会うかもしれない大切な人のために、
そんなのどうでもいいバカじゃないのと ”投げやり” にならずに、今一度 ”思いやり” について考えてほしいです。


だって、東京オリンピックが無事に開催されて、
槍投げ選手が重い槍で記録を出すより簡単な話でしょう?



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