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10:父の生活保護・荼毘

父と生き別れ 22年ほど経った時
京都のある市から 封書が届きました。

「貴方の父が生活保護を受ける準備がある為
月に1万でも支援できないか?」

と言う内容でした。1人でも
『YES』としてしまうと
生活保護が受けられなくなるので

兄弟揃って『NO』にしました。

それから3年。
京都の警察から
長兄に電話が入りました。

「貴方のお父さんがお亡くなりになりました。
自宅で1人で倒れていたところを
尋ねた友人が発見し
救急車で病院まで搬送しましたが
死亡が確認されました。

事件性が疑われた為に
警察が介入しましたが
事件性は無い、と判断されました。

身元の引き取りはお子さんが第一なので
ご連絡差し上げました。

如何なさいますか?

京都に住むお父さんのご兄弟に
受け取ってもらいますか?」

と、いった内容だったそうです。
(その日の夜の引き取りで
引き取れないので
叔父にお願いしたそうです)

夜に電話が来たらしいけど
長兄から連絡が来たのは
翌日の朝の9:30でした。
(飲み込むのに1晩かかったそうです)

もう会社に着いてました。

『今から京都に向かうつもりだけど
お前はどうする』
「え、行きたいよ。行くに決まってるじゃん」

何故 昨夜 連絡をくれなかったのか・・・
昨日なら代わりの人を探せたのに・・・

さすがにもう仕事に入らなければいけない時間に
今から休みます!には出来ない。

長兄は2つ隣くらいの県に住んでいるので
コチラに来てもらっても昼過ぎなので
働いて、早めに子供をお迎えに行って
旅の支度して一緒に連れていく話にして
仕事に入りました。

翌日もシフトは入っていたので
店長に理由を話しました。

「25年前に生き別れた父が
京都で亡くなりました。
荼毘に行ってきたいので
明日から数日休ませて下さい。」と

土日は休みの契約だったので
(子供の保育園が休み)
平日2日程の休み申請でしたが、
快く受けてくれました。

その日の仕事は全く覚えていません。

上がって更衣室まで戻った瞬間
涙がボタボタ落ちてきました。

“ああ、やっぱりあの日が最後だったのか・・・”と

父の運転するタクシーを見送った
あの日が
生きてる父を見た最後となりました。

生活保護の連絡があった時
“これから住むであろう”
市営住宅の住所も分かりました。

兄弟全員 分かっていました。

でも会いに行けば、きっと
金の無心をされる・・・

私は特に
父が母を殴っていた記憶はなく
“優しい父”の記憶しかなく

その父に金の無心をされるのは
私の心が耐えられそうにありませんでした。

でもウチの子供は血の繋がった
唯一の孫だし

死ぬまでには見せてあげたい・・・と
密かに思ってはいました。

まだ父は60代でしたので
まだ、先だと思っていたのです。

まさかこんなに早く亡くなるとは・・・

兄弟3人で車で京都に向かいました。

母には黙って行きました。
母は父の事は何も聞きたくないので

自分の分と我が子の分との
お泊まりセットを作ってる時に
ふと思い出して【お父さんセット】も入れました。

お父さんに関する
自分の持ってる全てが入っていました。
その中には生活保護の書類も入ってました。

京都に着いたのは23:30頃でした
道中は殆ど長兄が運転してくれ、
その晩は道中ネットで予約したホテルに泊まりました。

翌朝7:00頃 父の実家に行ったのですが 父はおりません。

火葬場にいると言うのですが
私達にはそれが何処か分かりません。

9:00頃やっと叔父さんが動いてくれました
9:30頃着いたけれど・・・

荼毘の予約は10:00だと言うじゃないですか!!

“えっ・・・”

“場所を教えてくれたら
自分達の車で 来たのに・・・”

“あの2時間はなんだったの・・・”

そうは思っても時間は30分しか
ないのです。
父との別れを優先しました。

もう棺に入ってる仏さんに
触るのは本当はダメなのですが
誰も止めないでくれました。

兄弟全員が大粒の涙を流し
兄と代わる代わる・・・父の頬を撫で、
父の頬はもう冷たく・・・少し固く・・・

憎しみも 悪態も 言いたかった文句も
何ひとつとして 出てきません。
ただ、ただ、涙しか出ませんでした・・・

しかし時間は無情にも
あっという間に来てしまい
父の体は お空へと帰りました。

父が倒れた時に身につけていたものは

▪時計
▪携帯
▪携帯ストラップ

だけでした。それは長兄が受け取り
後で兄弟で分けたのですが

私達は父の住んでた所を
外からでも見ておこう、という話しになり
行こうとしましたが
叔父さんが止めます。

詳しくは言いませんでしたが
人間として余り良い生活はしてなかったようです。

相変わらず借金を方々にしていたようで

借金取りが来てても
ビタ一文として払うな!?

お前たちは子供だから払ったら、
その瞬間!借金を相続する事になる!

いいな!? 1円も払うな!?
叔父さんに請求してくれって
俺に回すんだぞ!?

叔父さんはソコを心配していたのです。

火葬場にも借金取りが来てると
思い、
時間ギリギリにした様なのです。

そんな叔父さんの思いも気づかず
「心の中で文句言うてごめんなさい」と
心の中で謝りました。

父の住んでいた市営住宅に着きました。

着いてみると中が見たくなりました。
何か形見が欲しいと思ったのです。

高いものでなくていい
父らしいものが
何か欲しいと思いました。

そこで私は【お父さんセット】を
持ってきていた事を
思い出しました。

父の住む市営団地の
市役所からの封書が入っているのです。

封書を出して、市役所に電話し
専門部署に取り次いで貰いました。

👩「昨日亡くなった○○の娘ですが・・・
今、団地まで来てるのですが
中を見せてもらう事とかは可能でしょうか?」

👨『娘さんだって証明出来る
何かお持ちですか?』

👩「え・・・と?免許証とかですか??」

👨『あれ・・・今、何を見て
お電話下さってます?』

👩「あ・・・父が生活保護を受ける際に
子供に・・・出された封書の通知をみて
お電話してるのですが」

👨『あ!その通知、今お持ちです?』

👩「はい、今、持ってます」

👨『あ!なら大丈夫です⤴️すぐに行きます』

10分しないで来てくださいました。

生活保護を受ける際に
かなり調べるんですね。
兄、兄、妹の3人なのも
3人の年齢も、ご存知でした。

25年の間に
離婚の時以外も、団地に引っ越したり
進学やら就職やら結婚やらで
13回くらい引越ししてるのに
封書がちゃんと届いたのですから。

その封書を持っている事こそが
子供である確たる証明だったようです。

“【お父さんセット】掴んできて
良かった〜”

こうして市役所の方に
鍵を開けて頂きました。

女の人と暮らしてる痕跡があり
娘 ちょっとドン引きましたが( ̄▽ ̄;)

ま〜だ 女がおるんか〜い
相変わらず女、途切れない人やなぁ・・・と

父の書いた手帳やノート
父のメガネや
身につけていたであろう

他人にとっては
なんの価値も無いものを
形見として貰って来ました。

(残りは後日
叔父さんが業者さん頼んで
全て廃棄したそうです)

そうして長い旅が終わりました。

ある意味、心の旅路が終わったのです。

追記:
お向さんに『おたくのお父さの
水道代を立て替えたから
払って欲しい』と言われましたが

「明日、おじさんが来るので
そちらに請求してください」と
答えておきました。
叔父さん・・・ありがとう😆🎶

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