オートバイのある風景 29 SR400と伊香保の夜 その2
渋川でSR400の購入を決めたその次の週、僕は伊香保温泉を訪れていた。伊香保温泉と言えば365段の石段が有名だが、渋川の駅からバスでやって来た僕はその最上部のバスターミナルに降り立った。薄暗くなり始めた温泉街から渋川の街中を見下ろすと随分高いところまで来たのだと今更気がついた。
僕がこの由緒ある温泉を訪ねたのはもちろん、SR400を引き取っての納車ツーリングのためである。出品者さんから車検証を送ってもらい、名義変更を済ませ新しい静岡ナンバーを持参した僕は伊香保温泉のとある旅館にチェックインして彼からの連絡を待っていた。黄金の湯に浸かり一息ついていると予定通り電話があり、今から旅館までSRを軽トラで持って来てくれると言う。
旅館の駐車場でバイクを受け取り、ナンバープレートを取り付け出品者さんと別れた。明日は静岡まで納車ツーリングである。
今夜は温泉街の夜を楽しもう。
早速居酒屋を探して夜の温泉街に出ると、旅館からほど近いところに雰囲気の良いお店を見つけることが出来た。平日の夜とはいえなかなかの賑わいである。暖簾をくぐり一人だと告げるとカウンター席に案内された。
テーブル席はほぼ満席。温泉客もいるが地元のお客さんも多そうな店だ。カウンター席の背の高い丸椅子に腰掛けまずはビール。お通しをつまみながらお造りと焼き物を注文し、時折り大将と会話をしながらちびちびやっていると空席二つを挟んでカウンターで一人飲みの女性と目が合った。
歳の頃は20代後半か、なんちゃら48とかを卒業してバラエティーで活躍しているタレントのような容姿の可愛らしいお嬢さんである。その彼女が僕に向かってグラスを軽く上げ会釈する。僕も同様にグラスを上げて応える。
しばらくして僕が大将おすすめの地酒を飲み始めたところで
「そのお酒、美味しいですか?」
と彼女が聞いて来た。人懐っこい笑顔である。
「一杯どう?」
と返すと嬉しそうに
「頂きます。」
と言うので、もう一つお猪口をもらい彼女に一献差し出した。
それからは互いのつまみを分け合いながらお酌をし合い、会話も弾み楽しい酒席となった。彼女は28歳で横浜からのひとり旅、転職が決まり束の間の休暇を楽しんでいるとの事だった。僕の歳の話になると彼女は
「そんな歳には見えないですよ。」
と言い、僕を茶化すように
「そんなお洒落しちゃって、実はお腹弛んでるんじゃないんですか?」
と身を乗り出して僕のお腹の辺りに手を伸ばした。
彼女の指が柔らかい麻のシャツ越しに僕の身体に触れる。ふざけていたつもりが思いがけず僕の身体に触れ、彼女が一瞬ドキッとした表情を見せた。
取り繕うように椅子に座り直す彼女。青いマキシワンピースに入ったスリットから白い脚がチラッと覗く。今度は僕の方がドキッとした。
(世のイケおじとやらは、こうして若い娘さんと仲良くなって行くのか?)
このままではイケナイ事を考えてしまいそうだ。イケおじとはイケナイおじさんの事なのか?
あぁイケナイ、イケナイ。
居た堪れなくなった僕は彼女が化粧室に行っている隙に
「ご馳走様。彼女の分も付けちゃって下さい。」
と二人分の勘定を済ませて店を出た。
暖簾をくぐり、お見送りに出て来た大将と二、三言葉を交わしていると彼女が店を飛び出して来た。
「もう帰っちゃうんですか?」
「明日、ツーリングだからね。」
そう言うと彼女は
「すみません、ご馳走にまでなっちゃって。」
と僕の手を両手で握りしめた。
「いいの、いいの。楽しかったから。」
そう言って僕は酒場放浪記の吉田類よろしく、背中越しに手を振って宿に向かって歩き始めたのだった。
居酒屋の喧騒から離れ、射的屋の前を通り過ぎた所で一瞬後ろを振り返った。客のいなくなった店内から漏れる灯りが、誰もいない路地をやけに明るく照らしていた。
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