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バイクショートショート ナポリタンと1円玉

 羽島渉は中部地方のとある地方都市の国道沿いで喫茶店を営んでいた。この先には県境の峠道があり、休日ともなれば多くのオートバイが店の前を走って行く。その中でも結構な数のライダーが渉の店に立ち寄るのだった。とは言え今時郊外のこんな喫茶店が大繁盛する事も無く、それでもなんとか生活が出来ているのはこの古い店舗の家主の好意と、渉が独り身で慎ましい生活を好んでいると言うことに他ならなかった。

 渉は若い頃に所帯を持ったが、ひとり息子がまだ幼い頃に家庭が破綻した。仲間と始めた事業が失敗し、会社の金を持って姿を消した共同経営者に代わって渉が負債を背負い込んだ事が原因だった。妻は当初、一緒に頑張ると言い張ったのだが、渉がそれを拒否した。順調に返済が出来れば良いが、事故や病気で自分に何か起きたら妻と子供に迷惑が掛かる。半ば渉に追い出されるような形で妻は息子を連れて関西圏にある彼女の実家に戻ったのだった。
 その後渉は十数年をかけて借金を返済した。その間の仕事は内容よりも稼ぎを重視して派遣の期間工などをいくつか渡り歩いたため、人脈や何かしらのコミュニティといったこの先の人生における生活の基盤を築く事も出来なかった。要は借金を完済した時点で渉の元には、やっと手に入れた自由以外には何も残っていなかったのだった。
 やっと自由になれたよ、と別れた家族に連絡をしようかとも考えたが、それが渉には出来なかった。
こうなるべくしてなった事だ。
今更何を取り戻すと言うのだ。

 簡単なアルバイトと、離婚依頼十数年ぶりに手に入れたバイクでのツーリングで少しずつ自分らく暮らし始めていた頃、この峠の入り口の喫茶店に出会った。渉の住んでいた町からはバイクで1時間以上離れていたが、オーナーとの会話が心地良く月に一度は訪れるようになっていた。渉にとっては唯一、身の上や諸々の思いを本音で話せる相手だった。
 そんな生活がしばらく続いた頃、高齢のオーナーからこの店を引き継いでくれないかと相談された。オーナーの住まいはここを下った市街地にあり、妻と二人で暮らしているのだが、子供はおらず持病のある妻の介護に専念したいと言う事だった。もちろん、渉の身の上も充分承知した上での提案だったのは間違いない無かった。
 この店にも2階部分に居住スペースがあり、住み込みで働けばいいと言う。お世辞にも繁盛している店では無かったが、せっかくの好意、しかも店を続けてくれるなら家賃は要らないとの申し出だった。
 渉は考えた。もう来年には50歳になる。この先正社員としてどこかに採用される見込みは正直薄く、仮に雇ってもらった所で色んな仕事を渡り歩いて来た自分には退職金や手厚い年金なども見込めない。これは願っても無い話ではないだろうか。そして、そんな打算的な側面以外に渉にはもう一つ微かな希望があった。
 離婚して依頼一度も顔を合わせてはいないものの、一時も忘れた事の無い息子の事だ。別れた妻の実家は田舎とは言えそれなりの名家で、結婚当初も反対こそされなかったが本当に娘を幸せに出来るのかと蔑んだ目で見られていた。それがあのような事があり、それ見た事かと一切の連絡が出来ずにいたのである。
 そんな息子も来年には十八歳を迎える。田舎町のことだからきっとで車に乗り始める頃だろう。もし自分との記憶が残っていたら、保育園の送り迎えに何回か後ろに乗せたバイクの事を覚えていたら、バイクに乗っているかも知れない。妻の実家はこの峠を超えた先の県内である。
 渉はバイクに乗りこの国道を走って来ても、どうしてもこの峠を越える事が出来なかった。おかげでこの店のオーナーと出会う事が出来たのではあるが、ここで店をやっていればもしかしたら息子が立ち寄る事もあるのではないだろうか。もし会えたとしたら、お互いに気がつくものだろうか?そんな淡い期待を胸に、渉はこの提案を受ける事にしたのだった。

 話がまとまると早速住み込みでの引き継ぎが始まった。元々料理は好きで息子にも良く食事を振る舞っていた事や自炊生活が長かった事もあり渉はこの歳にしては飲み込みも良く、各種資格や届出も順調にこなして行った。
 店の看板はそのまま、メニューもレシピも変えず、前オーナーと僅かな常連客を大事にして渉は営業を引き継いだ。唯一変えたのは駐車場の一角に屋根付きの駐輪場を作り、そこに少しの工具と油脂類を置きバイクでの来客に自由に使ってもらうようにした事だった。
 県境にある峠の入り口の喫茶店には天気の良い日にはそこそこ多くのライダーが訪れるようになった。また、天気の悪い日でも屋根付きの駐輪場をみた旅のライダーが立ち寄る事も多く、渉の人柄もあって口コミは次第に広まっていった。

 夏のある日の事だった。ひとりの若いライダーが店を訪れた。
古いホンダの赤い250ccに大きなバッグを一つ括り付けていた。若い男性客が訪れる度に渉はもしかして、と思うのだが悲しいかな喫茶店では客の名前も住所も分からない。今まで何度も期待したり落胆したりを繰り返して来た。
 店を引き継いでからすでに季節はひと回りしていた。今ではこんな事をしていて意味があるのだろうかと自問自答する事も多くなっていた。今日もそんな複雑な思いを胸に接客にあたった。
「ナポリタンの大盛りと、アイスコーヒーをお願いします。」
「あいよ。」
ナポリタンはこの店の古くからの定番メニューであるが、渉にとっても息子に何度も作ってあげた愛着のあるメニューである。
 あの頃は息子用にケチャップに少しの砂糖を入れてたんだよな。
店を引き継いでからこちら、前オーナーのレシピを忠実に守っていた渉だったが、この若者にあの味を提供したくなり、この時ばかりはついついレシピを変えてしまった。唐辛子を入れず、代わりにほんの少しの砂糖を加えた甘口のナポリタンをテーブルに運んだ。
 ナポリタンの大盛りを平らげた頃を見計らって食後のアイスコーヒーを出す。
「美味しかったです。なんか、懐かしい味っす。」
若者はそう言って口を拭った。
「ツーリングかい?」
と聞くと若者は
「はい、帰省です。大学が夏休みで。」
と答えた。爽やかな笑顔だった。
「駐輪場の工具とかオイル、使っていいからね。ここから峠道だから、空気圧もチェックして。」
そう言うと若者は
「ありがとうございます!チェーンがジャラジャラいってたんで、ちょうど良かったです。」
と少し照れた笑いを見せた。

 勘定を済ませた若者は、早速駐輪場でチェーン張りと注油を始めたようだった。幸い平日で他に客もいなく、渉もテーブルを片付けた後で駐輪場に向かった。センタースタンドを立ててチェーンの張り具合を調整している若者に渉は声を掛けた。
「空気圧、俺が見とこうか。」
「あ、すみません。お願いします。」
渉がフロントタイヤの空気圧を見ようと前輪の前にしゃがみ込むと、フロントフェンダーに貼られた1円玉に目が止まった。
「これ、何だい?」
「え?」
「この1円玉さ。」
すると若者は照れくさそうに
「お守りというか、昔父さんが『紙飛行機に1円玉を貼ると良く飛ぶんだ』って教えてくれて、実際すごい飛んだんですよ。でバイクも良く走りますようにって貼ってるんです。」
 渉の脳裏に一瞬で息子との思い出が鮮明に蘇った。
あぁ、そうだ。保育園で教わった紙飛行機がうまく飛ばないと言って駄々をこねた事があったっけ。1円玉の位置を何度も微妙に調整して飛ばした思い出。もしかしたらこの子は…。

「お父さんもバイクに乗るのかい?」
「父さんも乗ってました。小さい時に別れて、全然会ってもいないですけど。」
「そうかい。」
「このバイクも確か父さんのと同じはずなんです。よく覚えてないけど何回か後ろに乗せてもらって。」
チェーンの張りをチェックする若者の横顔をじっと見る。一生懸命に絵を描いていた息子、大輝の幼少期の面影が頭に浮かぶ。どうだろう、いや間違いない、この子は俺の息子だ。大輝だ。

大きくなった。立派な若者になった。そうか、大学生か。

「そうか、思い出のバイクなんだね。私も昔、これの400に乗ってたよ。」
渉は涙を堪えてそう返した。
「400か250どっちかなぁって迷ったんすよ。赤いタンクは覚えてるんですけど、とにかく父さんと同じのに乗りたかったんで。」
父さんと同じ…その言葉を聞いて渉にはもう涙を抑える事が出来なかった。
「どうかしました?」
心配そうな若者に渉は
「いや、歳をとると涙もろくなってさ、ごめんよ。」
と言うのが精一杯だった。
チェーンに油を差し終えると若者は身支度を始めた。白いジェットヘルメットの横には「DAIKI」と小さくステッカーが貼ってあった。思わず渉は
「大輝!」
と呼び掛けたがエンジンの音にかき消されてしまった。
「ご馳走様でした、また来ますね!」
若者は排気音に負けないよう大きな声でそう言うと、単気筒の乾いた排気音を残し峠道に向けて走り出した。
 渉はその後ろ姿をいつまでも見送っていた。ナポリタンは今日から甘口で行こう。常連さんに聞かれたらなんて言い訳しようか、そんな事を考えていると
「マスター!」
と、大きい声で呼ばれて我に帰った。
振り返ると常連客が店の入り口で呼んでいた。
「オムライス大盛り、お願いしますよ!」
「あいよ!」
駆け出すと駐車場の砂利にサンダルを取られて転びそうになった。
それを見た常連客が大きな声で笑っていた。


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