雑感

活動を広げていくうちにnoteの更新が減ってしまった。
何もせずサボっていたわけでもなく、単純にやることが増えていっただけだ。
配信ではVtuber版七盤勝負のV盤王戦を主催したり、その裏ではbot開発をしたり、さらにはオンライン将棋対局サイトのlishogiにおいて翻訳や機能改善の提案や情報提供を行なっている。ということで、そうこうしているうちに時間だけが過ぎていったのである。

そしてふと思い立ったので、少しばかり感じることでも書いてみようかと思った。興味がなければただの文字列に過ぎないので、ブラウザバックを推奨する。指と頭の気の向くままに書いているので、論理構成とか話の展開もまず考えていない。ここから先は、時間を費やしてでも最後まで読んでみたいという好奇心旺盛な人の世界である。

文章を書くということ、出典の重要性

こうやって文章をダラダラ書こうと思ったのは、文章に限らずアウトプットが減ってしまうと、自分の中でたまることが増えるだけでなく、いざ出力すべき時が来たときに力を発揮できなくなる、と強く感じたためである。特に読書をして新しい知識などを導入しても、出力するシーンがなければいずれ忘れ去るか、記憶の彼方で埃を被り続けるだけである。
そのような中で、最近本を読むたびに強く感じるのは、文章に説得力を持たせる出典の存在である。一部の人には喧嘩腰な言い方になるが、残念ながら日本人著者の書く本は文章内の出典が非常に少ないか、あるいは皆無に近い。そのような文章はたとえその内容に目を見張るものがあっても、その主張を補強する下地がない以上は究極的には著者の妄想と言われても仕方ないことになる。その点は外国人著者による本を見ると顕著に感じるであろう。
先日、スティーブン・ピンカー著の「21世紀の啓蒙:理性、科学、ヒューマニズム、進歩(原題:Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress)」を読み終えた。現代社会の抱える問題は、人々が考える以上には深刻ではないので、そのことを嘆くより解決に力を注ぐべきである、という一見当たり前ながらも我々が見失いがちな点をデータを用いて鋭く突いてくる。その論理構成の中で「エントロピー」を全面に出すところに関しては、理系で少し専門的に学んできた立場として違和感を感じることもあるが、今は目を瞑るとしよう。ここで僕が言いたいのは、文章中でのその豊富な引用の註釈である。20章近くある著書の中で、各章ごとに100以上の出典が書かれており、文章により説得力を持たせている。中には英語圏特有の文化的背景(聖書や英文古典作品、格言など)がないと理解しにくい部分もあるものの、多くは出所が明記されている。豊富な実例を見ると、自らのデータベースがなんとも頼りなく感じると共に、興味深い情報や知識を出典とともに記録する習慣を身に付けたいとも強く感じる。要は頭の中で情報だけが散らかっていて、その根拠も薄弱になっているのだ。
少し話を日本に向けてみよう。研究を通じて強く不満を感じるようになったのは、研究成果の報道姿勢である。日本の主要紙は、主要な研究成果が発表されてもリンクや情報が少ないので、その原論文に辿り着けないことが多い。現代の一次ソースとリテラシーが重要視される風潮とはなんともかけ離れたものである。だから国際的な学術雑誌に論文が掲載された、と言われると、それだけでその内容や結論を信用してしまうことも多いであろう。辿ると怪しい雑誌に、どうにも怪しい研究手法で結論を出してはいないか?という事例もある。このことは現在進行中のコロナ関連ほどより深く注意すべきであるし、追いかけて実際に感じたことでもある。余談だが、(主に理系に言えるだろうけど)現在の論文出版システムは、基本的に出版社が一番儲かる形式である(要出典)。論文は掲載するにも読むにもお金を払う必要があり、その額も驚くほど高い(掲載料で日本円で数万円〜、論文を読もうにも特定の一つの記事だけで数千円かかることはザラである)。それでは科学の発展に良くないからとオープンアクセスの仕組みができたのだが、この仕組みをまた悪用して粗悪な結論を雨後の筍のように出すところも出てきた(ハゲタカジャーナルという単語を聞いたことがあるかもしれない)。
かなり話題が逸れてしまったが、結論としては「出どころをもっと明記してほしい」である。これはデータや情報が正しいかどうかの検証以前の問題である。ということで、僕自身もそのことには注意してアウトプットを進めていきたいと思った次第である。

PCで文章を書くこと

話題を変えよう。幼い頃からPCに触れる機会があったのに、未だキーストロークが安定していないと聞くと、僕を知る読者はそれこそ驚くに違いない。だがそれが現実であり、これだけの文章を打つだけでも指より頭の回転の方が速い。だが手書きよりかはキーボードを叩く方がより多くの文章を記述できるというのは、僕自身にとってなんとも皮肉なものだと思っている。こればかりは指の動かし方の問題であるだけに、今後とも訓練が必要である(なおキー配置は頭の中に覚えきっているので、指の動かし方に問題がある)。
ということで、僕にタイピングで挑もうとしないこと。機嫌を損ねること間違いなしである。

他者からの印象

僕は余程のことがない限り、昔から他の人の評価を基本的に避けるようにしている。それは単に人の悪口を言って自分の評価を下げたり、あるいは他者に媚びて阿りたくない感情が先に立つからではないかと一つに思う。幼い頃から同世代よりも大人びた言動であったこともあり、控えめに言って(親戚家族を除く)周囲から「孤立」して生きてきた。だから僕自身について言及される時は、自分が「利用されている」と感じるシーンばかりであった。それゆえ、反対に自分はそう言ったことをしたくない、も理由の一つであろう。
だが人生経験をそれなりに積んだことで、少しではなく、劇的に考え方が変わるようになった。少なくとも学生時代の前後では別人と言えるくらいの変化を見せている。この話は一部でも語って来たけれども、特段隠す話でもないのでここで書いておこうと改めて思った次第である。ではその境目で何があったのか?話は簡単だ。鬱になったのだ。僕の配信を観にくる人には想像がつかないかもしれない。でも事実だ。そこから人生も人としても変わった。今から振り返ってみても、ここまで社会復帰できるようになるとは思えなかった。でも戻ってこれた。今この文章を読んでいるの中に、ここ最近どうにも気分が滅入りがちな人もいるであろうし、先行きが不安とかもあるだろう。でも一つだけ言っておきたい。自分が苦しいことも意外と乗り越えられるものなのだと。それでも辛ければ、話を聞いて経験を話すくらいはできる。というかそれくらいしか僕にはできない。だから声をかけてほしいなと思う。それは今だからこそできる、僕なりの社会貢献の一つだと思う。
再び話が脱線してしまった。この話題を出したのは、将棋Vの流れの中で紹介されたりすることが増えたからである。昔とは考え方も、付き合う人も違うので、先のような感情を抱くことも無くなった。そのことだけはここではっきりとここに書いておく。なので今後とも印象など遠慮なく書いてもらって構わない。逆のことは多分やらないと思うだけなので。
そう言った記述を見て、僕自身は不快であるとか、嫌に思ったことは全くない。それ以上に驚いたのは、まるで別世界の人のように思われる節である。確かに、人生経験や知識といったものは同世代で見ると豊富かもしれない。人間関係だって、20年近く前とは考えられないくらい増えた。良い人々と付き合えることに、むしろこちらこそ感謝の気持ちしか湧いてこない。そして、それぞれが、それぞれの立場で活躍できればいいじゃないかと思う。
そして僕自身がいつも思うのは、自分を前面に押し出して活躍する姿は考えていない。裏方として、前面に出ていく人々を支えていく方が性に合っている。なので裏方として技術的なサポートなどをしている。それすら純粋に楽しいと思えるし、実力をつけるいい機会だとも思っている。その点で、成長を目指すには積極性が大事だと思っている。僕がこうして様々な経験を積み、こなしてきたことは、今振り返っても決してマイナスになっていないし、後悔もしていない。何より、純粋に自分が「必要とされている」とここまで感じたことはないと言っても良いだろう。だから特定の人にではなく、受け入れてくれたコミュニティそのものに、ありがとうを伝えたい。そこに現実とバーチャルの区別はない。

最後に

もう少し読みやすくて面白い文章を書けばよかったと思いつつ、ここまで他愛のない文章を読んでくれたことに感謝を!

いいなと思ったら応援しよう!