C39三笠の山に出でし月かも
結局、ジェームズは2週間も持たずにスペインに帰ると言い出しました。彼は最後までこの農場には馴染めず、相当ボスにも怒られていたようですが、いじめというよりも、彼の自発性のなさが一番の原因に思えます。なんと去る日に、私の部屋に来て「イキオは、ボクのベストフレンドだった。」と思ってもみない言葉を言いました。「俺は何もしていないよ。」と本当のことを素直に言うと「実はイキオ、ボクは君の思い出として、君が使っていたポンチョのレインコートを持って帰りたい。」と本音を吐きました。要は私が持っているポンチョ型の雨具が欲しいのです。「そのようなタイプのレインコートはスペインにないので譲ってくれ」と懇願しました。
「その代りボクが使っていたこのコンパクトラジオをあげるよ。」と今度は交換条件まで出してきました。そのラジオは、ジェームズがこの農場で働き始めてすぐ、カンタベリーの電気店で購入したものでした。週末には彼の部屋から音楽が流れてきて羨ましく思ったものです。特にレディオ・キャロラインというラジオ局の音楽番組は選曲が素晴らしく、私も思わず耳をそばだてて聞き入っていました。なんとそのラジオを私にくれるというのです。ラッキーではありますが、雨の作業時には大変重宝していたので、雨の対策を考えると手放すのも困ったものです。しかし、最終的には、彼の申し出を受け入れることにしました。
レインコートは、農場にも備え付けのものがあります。もちろんお気楽ジェームズがこの家からいなくなることは、大変な慶事ではありますが、ラジオがジェームズと共になくなるとなれば、少し寂しいということも事実です。その夜から、気に入ったラジオ局の番組を聴きながら、夜の楽しみが一つ増えました。外に出ると満月で、夏とは言え、夜のイングランドはひんやりします。まるで日本の秋のようです。
高校の時に覚えた百人一首の歌が思い出されました。「天の原ふりさけみればかすがなる三笠の山にいでし月かも」たしか阿倍仲麻呂が、遣唐使として中国に渡って久しくなったときに、日本でも見上げた月がこの地でも見ることができる。今頃この月を見ている日本にいる友人たちはどのように過ごしているのだろう、という大まかな意味です。私も久しぶりに日本のことを思い出しました。みんなどうしているだろうか。既に日本を出て五か月が過ぎました。人に噂も79日というし、それぞれの暮らしを過ごしているのでしょう。私も遥かイングランドで充実した日々を送っています。ちょっとセンチメンタルな気分になりました。夏にしては冷たい風が吹いて、身震いをしました。最近は日本の人たちはちっとも便りをくれません。「なんとなく冷たい奴ら」そんな気持ちがふと浮かびました。さて、明日からまた新しい現場に行くことになるのでもう寝よう。体調はいい。食欲もあります。体重も一時期減ったものの今では、日本にいた時より増えたかもしれません。なかなか英語力は上達しないものの、ヒアリングの能力だけはかなりついたと思います。最近は、日本に帰ったらこんなことがしたいという夢も出てきました。旅を始めたときには、自分の将来についてなかなか具体的な像は見えませんでした。もっと勉強をしようと思えるようになってきました。ヨーロッパを旅したいという小さいころから思い描いていた夢が叶いました。これからもきっと旅を続けるのでしょうが、今の旅の延長線上にある自分の将来に少し楽しみが出てきました。それが日本を出る旅で手に入れたい目的の一つだったのです。
電気を消して、かなり真ん中がくぼんだベッドに横たわると、月の光が部屋の中まで差し込んできました。いよいよ旅のクライマックスが近づいてきたような予感がしました。
補足情報:イングランド南部の「ブラディ」
イングランド南部の人々がよく使う「ブラディ(bloody)」という言葉は、感情を強調するためのスラングとして使われます。元々は「血まみれの」という意味の形容詞ですが、現代では感情や意見を強調するための軽い罵り言葉として広く使われています。「bloody good」や「bloody awful」など、ポジティブにもネガティブにも使われます。
この言葉は特に強い感情を表現するために使われることが多く、日常会話の中でも頻繁に耳にすることができます。しかし、あまりにも頻繁に使うと粗野な印象を与えることもあるため、使用には注意が必要です。
例えば、イギリスのドラマや映画を観ると、「ブラディ」という言葉が多用されているのがわかります。特にコメディやアクション映画などでは、その感情表現の豊かさから効果的に使われることが多いです。
また、イギリス国内でも地域によって使用頻度やニュアンスが異なることがあります。南部では比較的軽い感覚で使われますが、他の地域では違った意味合いや強さを持つこともあります。そのため、地域の文化や言葉遣いを理解することが重要です。
総じて、「ブラディ」という言葉はイギリス文化を象徴する一つの要素であり、その使い方やニュアンスを理解することで、より深いコミュニケーションが可能になります。
続く