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ないものねだり|絢爛とか爛漫とか 感想

8月24日 17時
脚本 飯島早苗
演出 鈴木裕美

ずっと上演されたら見に行こうと思っていた作品。なかなか上演されないから行きてるうちに上演されるかひやひやしていましたが、上演されたので行ってきました。

一言、見れてよかった。

ただただこれにつきます。
絢爛とか爛漫とかを知ったのは、私が高校生の時に、顧問の先生にこれ読んでみるといいよと渡されたのがきっかけでした。一方的に縁があって、「絢爛とか爛漫とか」と「法王庁の避妊法」を読ませていただいて、法王庁は実際に上演したりしました。(ってかくとばれるかもしれない)
そんな作品だったのでぜひ上演される際には観に行きたいと思っていました。

まず、真っ先に舞台装置が大好きな人間なので、この作品の具象舞台の作り込みに圧倒されました。派手さもなく抽象的でも前衛的でもない作品だからこれでもかという作り込み。
季節が移り変わっていく様子にも背景や小道具、まして登場人物一人一人の衣装に繊細に表現されていました。
忠実な時代背景を再現するような意気込みが感じられるあの空間で、四人、たった四人の役者がこれでもかってくらい存在を浴びせてきました。

面白いなって思ったのが、高校生の時に読んだ時の印象と、今回観劇し終わった後に抱いた感想がまるっきり変わっていることですね。
正直の話をすると、わりと高校生の時は古賀に感情移入してて諸岡が好きじゃなかった。これは完全にないものねだりの嫉妬です。笑
今回見た時は、古賀が羨ましくてしょうがなくてしょうがなくて諸岡の気持ちも痛いほどわかるし、泉と加藤の気持ちもわかるようになっていたから余計に古賀に対して悶えるというか、そうじゃないんだよ古賀、気づいて、きづいて感が芽生えました。

わたしたぶんすごく古賀に似てる人間なんですよ。
考えすぎで動き出すのが遅い(この感想をあげるのが遅いのを見て明白ですが・・・)、そのくせ失敗するのが恐ろしいし、周りの人間がずるいとか恵まれてると思うと途端に嫌になってしまう。
それでも手放すことができなくてもがいて苦しんで・・・の負のループを彷徨う…。

自分がもがき苦しんでやっとこそ少しできることを、周りの人間は簡単にこなしてしまったり、自分より楽しそうにこなしたり、自分より個性的なことをしたりする。
自分は何やっているんだろう。自分とはなんだろう。自分は必要ないんじゃないか?そんなことが頭によぎるんですよ。だから古賀の気持ちは痛いほどわかる…。(でもこれもきっとわかってるつもりなんでしょうね)
古賀が救われるのはおそらく「誰かの1番になること」だと思うんです。
揺らがない「誰か」にとっての「一番」。古賀がどんなことをしても、どんなものを作り上げても、1番として古賀を見てくれるような存在。この存在って「自己証明」の根拠になるので絶対的な「安全地帯」になるんですよ。

でも、作中ではそんな存在は出てきませんでしたね。私はそこがこの作品の魅力だと思っています。
多くの作品では「ヒロイン」的な存在がこの役割を担っています。でもこの作品にはヒロインはいません。ダンサーには美人局をされ、女中にはフられます。
そんな簡単に自分を一番としてくれる人間は出てこないんだぞというのがすごく、現実的で残酷で、悩み苦しむ等身大の姿が、時代を超えてこちらに突き刺さるのだと思いました。

古賀が苦しんで悩んでいる様を、周りの三人は茶化すわけでもなく、ただ友人として寄り添う。なんて恵まれてるんだ古賀…!っていうのを夏あたりのシーンでめちゃくちゃ思ってました。
この友人たちは決して、古賀を崇めたり盲信したり、陥れたりしないんです。古賀としてみている。互いに互いを一人の個としてみているんです。
だからこそ、物語の後半で諸岡が小説家業をやめ、加藤が実家に帰り、泉と古賀だけになっても互いのバランスが変わらないんですよね。そこがこの作品の素敵なところだと思ってます。

古賀と諸岡がぶつかるシーン。
本当に胸が苦しかった。互いに言っていることが、互いにとってないものねだりで、欲しくてたまらないものなのに、持っている人間は簡単にそれを捨てようとする。そんなの許せないじゃないか。自分が欲しくて欲しくてたまらないものを持っているくせに…!ってなるんです。
古賀にとって、おおらかにありのままをさらけだすように筆を進められる諸岡が羨ましかった。諸岡にとって、なりふりかまわずただ「小説」ということに心を砕くひたむきさが、情熱が羨ましかった。
うらやましいのぶつかり合い、ここの古賀がまるで子供のように駄々を捏ねるんです。それを泉が止める。泉はきっと諸岡の古賀へ抱く感情をわかっているんでしょうね。

自分にとってはありのままでいることによってが他人にとって美しく見える。
古賀にとって諸岡は絢爛の輝きのような才能の持ち主だし、諸岡にとって古賀は爛漫の輝きの持ち主なんでしょうね。きっと立場が変わればこれも変わるんだろうけど、だからこそ他人の輝きはないものねだりをしてしまうほど眩しい。

わたしすごくこのシーンの諸岡と古賀うらやましいんですよ。
諸岡の手放そうとしていることを駄々を捏ねるように全力で嫌がる友人って、自分にはいないので自分のことに関して烈火のごとく怒ってくれる人が自分のそばにいるってすごく幸せだなって。
古賀が手放そうとしている才能を、これがお前の「才能」だと突き返してくれる。自信を持て、これがお前の武器だと肯定してくれる。
本当に羨ましい。加藤の存在も、泉の存在も、古賀にとって、諸岡にとって、泉にとって、加藤にとってかけがえのないものなんですよね。
移り変わる関係性の中で、ただただ互いに「自分」というものを証明する人たち。互いの存在が少し変わるタイミングで自分を肯定する存在をして在るというのは、とても歪で健全な友人だなと思いました。

いい出会いをした。いい別れをした。
自分を知った。自分を見失った。
流れゆく季節の中で、丁寧に美しく、描かれている感情の機微の中で、自分を知っていくことで古賀が自分を肯定する過程が美しい作品だと思いました。

自分のことを知るのって本当に難しい。
何が好きで何が嫌いか、なんで好きかなんで嫌いか。なんとなくでいきている、なんとなくで生きていけるからこそ、「じぶんはなにものか」を肯定するのが苦しい。
そのもがき苦しむ過程を見た作品でした。

きっと古賀はこれからも何度も何度もこうやってもがくんでしょうね。
その度に隣にいる人は変わっているかもしれない、隣に誰もいないかもしれない。それでもただひたむきに問いかけ続ける古賀がいるんだろうと思います。

きっとわたしも古賀のようにこれから何度も悩む気がします。
でも、みんな悩んで苦しんでもがいて喘いで、それで見つけた答えを胸に掲げて生きていくんだなと思うことができる作品でした。

四人だけのじっくりとした見応えのあるお芝居。
こういう静かな演劇、少人数の演劇を見るのはやっぱり楽しいです。見てよかった。