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受け止め方で変わる「病名」を知る意味

「のびのびと生きる」姿勢に宿るチカラの中で、私は病名を知らぬまま寛解を迎えたと書いた。

実際に、その通りである。

だが、その後、私は病名を知る機会があった。

病名など知らなくてもよいと思っていた。と同時に、病名を知りたい気持ちがどこかにはあったのだろう。「病名を知る機会」を持てたこと。そのことは、「病名を知りたい」気持ちが引き寄せた運命であったのかもしれない。



命の営み。心の病の治り方にて記した、「治療の中止」という形で面談を終えた頃、私は米国に留学するべく準備を進めている最中だった。

心の病を収束させた直後に、留学というのは無謀だったと今は思う。だが、当時は、米国に留学するという目的を果たすためにも、心の問題にケリをつけたいという気持ちでいた。ある意味、寛解と留学はセットだったのだ。

主治医から渡されていた手紙があった。診断書のようなオフィシャルな書類ではなく、念のための「お守り」として英文で記載された手紙を渡されていた。

「もしものとき」のための手紙。気持ちを落ち着かせるために「薬の力」を借りたいときに手紙を見せればよい。そう考えていたのだ。



米国には語学留学で度々訪れていた。

だから留学そのものを気楽に考えていたのだが、大学院に正規留学となると、なかなかハードルは高かった。

決めるべきことが乱立し、柔軟な対応が求められる状況で四苦八苦した。
パートタイムでできる仕事(TA=ティーチングアシスタント)をどこまで受け持つか、企業スポンサードの奨学金を受けるかどうか、短い時間での判断が求められた。その上、寮の仕組みにも戸惑いがあり、急遽、寮を出ることにした。

小さなストレスが複合的に重なったからだろう。そのあたりから、うまく眠れなくなってしまった。

そこでスクールカウンセラーに予約をとり、「お守り」であった手紙を持参し、「しかるべき助けを借りよう」としたのだ。



軽く挨拶をした後、スクールカウンセラーは手紙を開封する。

すると、表情が急に変化した。明らかに険しい表情だった。

病名を告げられた。単語は聞き取れたが意味が頭に入ってこなかった。想定すらしたことない病名だったからだ。

そして、私が病名を知らなかったことに驚かれた。

どのような治療を受けてきたのかを私に確認した後、次のように話された。

「留学ができる状態であるはずがない。そんなやり方では、きちんと治療をしたとはいえない。正直なところ、今すぐの帰国を勧める。もし、帰国しないのであれば、こちらの指示に従い、休学をして然るべき施設への入居をしてもらう」

いわゆるリハビリの施設のようなものだろうと思ったが、そもそもリハビリ施設に入るために米国に来たわけではないし、私の学生ビザで滞在しながらの治療が可能かどうか等々、不安が増すばかり。

米国に留学をするという目標があったから、治療に頑張ってきたのだが、このような展開になろうとは。

悲しい気持ちでいっぱいになりながら帰国を決めた。



日本に向かう飛行機に乗る頃には、涙を流すよりも、私にはするべきことがあるという確信があった。不思議なくらい腹の底から力が湧いてきていたのだ。

病名を知ったからできることに全力で取り組もう。そのことしか頭になかった。

私は、日本に帰国した後も、通院を再開せず、病名を頼りに、自分が長い間治癒を目指してきた病のことを調べ尽くしたのだ。

「春までの期間を猶予として認めて欲しい」と両親に頼み、実家に身を寄せることにした。

パソコンを購入しISDNを開設した。インターネット社会から得られる情報を自らの良心で判断することを繰り返し病について調べ続けたのだ。



私は、とにかく没頭しやすい性質である。

帰国したのは9月。半年の間に家を出ると決めたのだからと、寸暇を惜しんで病を調べることに取り組んだ。

あれだけの決意。心の中から沸き起こる使命感。「絶対に治る」という強い気持を持てたのは、病名を知るタイミングが絶妙だったからかもしれない。

私の場合は「病名を知ったこと」が治癒への足掛かりになったことは間違いないと思う。

病名を調べれば調べるほど、恐ろしい話が掘り起こされてきた。だが当時の私は、ただひたすらに「治癒」することだけを信じ、そのために自分ができることを考えて行動していた。

自らが置かれた状況を嘆き悲しむより、限りある命の時間を有効に使うためにできることを実践する。

病名をどう受け止めるのか?

そして、それをどう生かしていくか?

要は自分次第なのだ。



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