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歴史を「知る」身近な方法は

私は歴史の勉強が好きではなかった。

当然のごとく歴史の点数は芳しくない。

そこそこの進学校でセンター試験70点くらいというのは超絶落ちこぼれに属する。点数を取れない「補習組」という評判が周りに定着すると悪循環が起き、更にモチベーションが下がるという具合だった。

高校3年生の私は、ふいに開き直りの瞬間を迎える。

試験で点数がとれないのは仕方ない。デキない理由はハッキリしている。暗記モノが苦手なのだ。

暗記モノは苦手だけれど、自分が実体験をしたことは比較的よく覚えている傾向がある。

だったら、試験のことは一旦脇に置いて、今起きていることに関心を持ってこの先の人生を送ればよいのではないか?

そういう風に吹っ切れた私は、時事問題に関心を持つことにした。

関心を持って「今」を積み重ねていけば、自然と歴史を知ることになると考えたのだ。

新聞やニュース番組を積極的に見るようになった。

もともと理系畑であったから社会科全般に興味がなかった。最小限の時事問題にすら興味関心を持てなかったのだ。

周りから「理系というのは全く言い訳にならない!」と叱咤激励されたこともあり、その反省もこめて、広く浅く、時代時代のトピックを追うことを心がけた。

その結果として、今がある。

もちろん「生き字引」というほど詳しくはない。だが、昭和末期から平成、そして令和の時代を生きたのだ。

ここ数十年の「近代史」ならば、記憶の引き出しに入っている。

横田滋さんが202年6月5日に永眠された。

「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」の代表を長年務められてきた方として有名だ。

当の私はというと、北朝鮮による拉致被害者について、当初は冷ややかな態度であった。

人生の中でガラリと受け止め方が変わったことの1つであり、「人生の中で大きく考えが変わった大事件」といっても過言ではない。

時間の流れで随分と変化したのだ。

まず、北朝鮮による拉致については、私が中高生であった1980年頃には、噂があるという程度だった。

クラスメイトの中には、とても怖がる人がいた。だから噂はよく見聞きした。

けれども、私の中では「都市伝説」のようなものでしかなかったのだ。

海岸に1人で行ってはいけない。
カップルで行ってはいけない。
もし海岸に行くのならば、大人数で明るい時間に行くこと。

こういう話がまことしやかに囁かれていたが、私は本気で受け止めていなかった。

「噂好きな人が、またお喋りしているな。」くらいにしか気に留めていなかったのだ。

私の中に大きな意識の変化が起きたのは、1987年11月のこと。

大韓航空機の爆破事件がキッカケだ。

爆破事件の実行犯は、当初、日本人とされた。

犯人が日本人ということに疑問を抱いた私は、ニュースに釘付けになり、慎重に情報を集めていった。

そして、犯人は北朝鮮の工作員ということが判明。「拉致された日本人に日本語や日本文化を学んだ」という工作員の言葉を聞くこととなる。

その事実を知って以来、もしかして北朝鮮による拉致というのは、本当にあったのかもしれないと考えが変化し始めていく。

北朝鮮による拉致事件に対して、関心を持つようになったのだ。

にわかには信じられなかった部分もある。だが、新しい情報を見聞きするにつれ、着実に考えは変化し、徐々に確信へと変わっていった。

「歴史が動いた」というパワーワードがある。

とても力強い印象の言葉だ。

古い歴史に関しては、歴史が動いたことくらいしか記録に残ってないのだろうから、その節目となった「大転換期」を効率よく学び試験で点数を取るという「教科書での学び」も手法としてはアリだろう。

だが、それとは別に、今生きているからこそできる「歴史の学び方」があると思う。

「今」起きていることに関心を払い、事実かどうかを自分の頭で判断し、適宜、時事問題に詳しい人の意見を参照しながら「自分の考え」を持つ。

そうすることで、歴史の「節目と節目の間に起きたこと」や、状況が変化していく「流れ」が自分自身の中に絶妙に染みこんでいく。

そして、ある時、「新しい事実」を受け取ると、ドミノ倒しのように「過去の認識」が変化する。

リアルタイムで歴史的な事実と関わるからこそできる貴重な体験だ。


こういう「歴史」との関わり方は、身近な方法であり、生きた知識として自分の中に深く刻まれる。

北朝鮮による拉致被害者に関して、自分は具体的に何かをしているわけではなかった。だが、ずっと関心を持ち続けてきた。

特に縁故があるわけでもない。主体的に関わる立場にもない。そういう存在として見守ることが「民意」を作り歴史を形作っていく。

そう信じて、これからも「今」に関心を持ち続けていきたい。


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