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運命と宿命

「あなたはこの土地で生まれたの?」

唐突に老人は私に尋ねた。

「どうしてそのようなことをお尋ねになるのですか?」

びっくりした私は、その質問の意図を知りたくて、言葉を返すのが精一杯だった。



それは、ある春の日。桜の花が例年よりも早く咲いて早く散った頃だった。

桜の花を期待して訪ねてきたが、少し遅かったようだと話を切りだした老人は、私の生まれについて尋ねてきたのだ。

当時の私は、桜の名所として知られる公園の一角で働いていた。見ず知らずとはいえ、お客様である。だから私は、老人の質問に驚きながらも、平静を装うしかなかったのだ。

「生まれについて尋ねた理由」は次のようなことだという。

ここに来る前に、港で網の手入れをする年配の漁師を見かけた。

網を器用にさばく漁師の手元を見ていたら、漁師の人生に思いを馳せたくなったのだ。この土地で生まれたから、この仕事に就いたのか、それとも、この仕事を好んで就いたのかと。

海の近くで生まれれば、漁師になることは容易に想像できる。だが、山奥に生まれれば、船に乗って大海原に出て漁を行う「漁師」になることは、まずないはずだ。

つまり、生まれた場所で選ぶ仕事には違いが生まれるということ。

だから、私はあなたに尋ねたくなった。この土地で生まれ、この仕事に就いたのかと。



その言葉にハッとなり、胸の鼓動を感じずにはいられなかった。何か、とてつもない力に導かれ、この老人との会話が始まったと感じたからだ。

「私はこの土地の生まれではないのです」

その言葉を聞くと、老人の表情はパッと明るくなった。私が生まれた土地を離れた経緯などをサックリと尋ねて次のように老人は言った。

「では、あなたは自分の運命を生きているのだね」

少しの間を置いて、

「これが私の運命なのですか?」

と尋ねると、

「生まれた土地を遠く離れ、この地で仕事を得るまでの道のりを考えてごらんなさい。自力でこの地にたどり着いたあなたの行動を『命を運んだ』という以外に何といえばよいのか?」

その老人によると、生まれた場所で選べる仕事に就くことは「宿命」であり、生まれた場所から離れて自ら求める仕事に就くことは「運命」なのだという。

私は、自分が望んでこの仕事に就いているのか、今一つ確信が持てず、なんともいえない気持ちになった。



その老人は瞳が白く濁り、物の見え具合が良好ではない様子だった。

車の運転はできないが桜の花は見えるだろうと、運転手を誘って花を見に来たが、自分の都合ではなく自然の都合で「今年の桜を見損ねた」と、冗談交じりに笑っていた。

あの老人は、目で物を見るチカラが弱っている分、鋭く見抜いた真実があったのだろうか?

桜の花が咲く季節になると、そのことを思わずにいられない。

なぜなら、それからほどなくして、私はその仕事を辞めたからだ。

これが運命ならば、このままで人生が終わるはずがない。この地に来た自分の運命を全うしたい。

運命を生きる。

この気持ちを奮い立たせる桜の花。

「今年も桜は咲きましたよ」

もう二度と会うことはない老人に、私はこの言葉をかけ続けている。

ひと春ごとに歩みを進めつつ。