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答えがないなら「都合がよいほう」を選べばよい

「答えのない問題」に悩むことは素晴らしい。

20歳代の頃の私は「答えのない問題」に哲学的な響きを感じていた。人生の普遍的な悩みであるとも思えた。

このような悩みがあることは、人間らしさの価値であり、思考ができる生き物としての誇り。

ある意味、悩む自分に酔っていたのかもしれない。

30歳を過ぎてもなお、悩むことに意味を感じ、悩める自分自身に誇りすら感じていた。

だが、「答えのない問題」において「選択を迫られる」タイミングがある。途端に、「答えのない問題」に苦しむことになるのだ。

そんな私は出会ってしまう、「答えがないなら、都合がよいほうを選べばよいのでは?」と言い放つ友人に。

その友人は「私の友人」のことが好きだった。いわゆる「彼の片思い」だった。

ドラマや漫画にあるような3人仲間で、私は「いい塩梅」の立ち位置。そのおかげで男女を意識することなく彼との友情を育むことができたのだろう。

彼とは「価値観の違い」を楽しみながら、いろいろなことを話すことができた。

意見交換しましょうとどちらかが持ち掛けたわけではない。だが、普通に会話をしているだけで、お互いの「違い」に触れることができる学びの多い関わりだった。

違いを理性的に受け止めあえたから、有意義な時間を過ごすことができたのだ。

あるとき、「答えのない問題」が話題になった。

当時の私は、どちらも選びたくない状況で、どちらかを選ばなくてはいけない「切迫した状況」に置かれていた。

バッタリ出会った彼は、私が暗い表情をしていたのを気にかけて声をかけてくれたのだ。

「深刻な悩み」であったから、私は悩みの内容を言いたくないと感じた。だから、言葉を濁しつつ「会話を終わらせよう」という気持ちで次のように返したのだ。

「答えのない問いかけ」に悩まされている。どちらかを選ぶために論理的に考えてみても答えが出ない。しかし答えを選ばなくてはいけない期限が迫っているから困っている。

すると彼は言い放ったのだ、

「答えがないなら、都合がよいほうを選べばよいのでは?」

と。

あっけらかんとした、明るい彼の表情が今も目に浮かぶ。

「都合がよいほうを選ぶって、論理的にではなくて直感的に?」

と、私が尋ねると、

「そうですねー。好きなほうを選べるって最高の問題じゃないですか!」

っと、彼。

またまた拍子抜けするほど明るいトーンで答えが返ってくる。

次の瞬間、フラッシュバックした。私は彼との会話で腑に落ちなかったやり取りのシーンが脳裏に浮かんだのだ。


「猫は好きだし、実家では猫を飼っているけど、ボク実は猫アレルギーなんです。」

そういう彼に私は、

「ジレンマだよね。」

と憂鬱な表情を浮かべる。すると彼は、

「えっ?ジレンマ?なんでです??」

キョトンとした顔になる。そのまま彼は次のように続けた。

「猫が好きならアレルギーでも飼いたし、飼いたいから飼うでいいんじゃないですか?」


猫を飼うという選択肢は、彼にとって「都合がよいほうを選んだ結果」だったのだろう。

彼以外の家族全員が猫好きで、猫が飼いたくて、彼だけがアレルギーなら飼うという選択肢は「都合がよい」のだ。

もっとも、アレルギーは軽度であり、寝るときに布団に入ってこなければマズマズOKだからとも話していた。

要するに、いくらか不都合なことがあってもOKって思えるのは、彼にとっても彼の家族にとっても「都合のよい」選択をしているからということなのだろう。

自分にとってだけ都合がよいことを選ぶというのは、別の意味では問題のある行為だ。エゴイスティックとか自己中心的とか、そのあたりの問題を孕んでいるだろう。

だから慎重に考えていくべき点もあるが、「選択の結果が及ぼす範囲を見渡して、全体的に都合がよいと思えるほうを選択する」という考え方は、人生をうまく動かしていくにはよい視点だ。

考えても答えがないのなら、都合がよいほうを選べばよい。そんなことを意識しながら生きてきて、15年ほど経った。

あのとき「都合がよい」と直感的に私が選んだ道は正解が判定不能な問いかけだった。この先も「選択した道」の判定が下ることはないだろう。

だが、「自分で選んだ」という事実は残る。

明確な根拠がないとはいえ「自分が都合よいと感じたほう」を選んだ結果の「未来」で私は生きているのだ。

どちらも選べないがどちらかを選ぶしかないというのなら、自分にとって都合がよいほうを選べばよい。

答えのない問題なのだ。

正解も不正解もない。

だったら好きに選べばよいだけ。

つまり、「これほど都合のよい問題はない」ということ。

新しい価値観を私の人生に呼び込んでくれた彼は、当時片思いしていた私の友人と結婚し、2人の子どものよきパパとなっている。