エッセイの裏側
「特に好きを集めました!」と通知が来ました。お読みいだたいたみなさま、並びに、スキをしてくださったみなさま、ありがとうございます。
これを機会に、前々から思っていたことを書いてみようと思います。それは、「エッセイの裏側」です。
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時々、エッセイは根拠がない主観的なものだとか、創造的(=クリエイティブ)なものではないからエッセイストはクリエイターではないという意見を耳にします。
根拠がない主観的なものもエッセイに含むとは思いますが、エッセイは根拠がない主観的なものばかりではありません。
クリエイティブとなるような作業をしていないことを売りにした「脳内垂れ流し系」のエッセイもありますが、それでも最低限、人が読み、言語として理解しうる形にするのであれば、いくらかの創造的な作業をしているはずです。
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では、『野球が好きなのは伝えられなかった「ありがとう」があるから』を例にとって、その実際についてエッセイの裏側を見ていきましょう。
私は、根拠としてのエビデンスをここには示していませんが、主観と客観を明確に意識しながら文章を書いています。根拠が確認できる場合は、原則確認をして書いています。
根拠が曖昧なものは、リアリティに欠け、人の想像力を刺激しないと思うからです。
今回は、幼馴染の彼に、「事実はどうでしたか?」と確認できないことが、エッセイの肝です。読み手には、彼の気持ちを察してもらうことを、ひとつの軸と決めました。
主観的であることを前提にするしかありませんので、事実ではなく、これは私の側から見た景色であることが伝わるような表現を選びました。その上で、想像力の道案内として「私はこう感じた」という言葉を入れました。
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創造的な部分に関しては、情報の整理と選別とが重要なカギとなります。
書き手が伝えたいことを1点に絞らず、読み手に解釈の幅を与えるため、実体験をもとにしたエッセイであっても、全ての事実を書くことはありません。
そして、実際に起きたことを整理して、大胆に削除していきます。その余白を想像してもらうためです。
情報の整理と選別に関して、『野球が好きなのは伝えられなかった「ありがとう」があるから』には、選別して採用しなかった情報があります。
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ひとつは、彼と実際に野球をしたことがあるという思い出話です。軟式ボールを使った仲間内のレクレーションでしたが、関係が良好なときもあったという要素になったため、思い切って削除しました。
エッセイの軸を、彼と私は「表向きは対立関係」でありながらも水面下では違っていたという構図にしたかったからです。
もうひとつは、誕生日の話題に関しての後日談です。エッセイの肝となる「誕生日の話題」に関して、実は、その続きがありました。
彼との共通の友人と電話をしていて、彼が本当にファンだった野球選手は別にいたと判ったからです。
そのため、あの話題は、私を励ますための言葉だったこと、それを伝えるために「好きな野球選手の話題」を彼が持ち出したのであろうことを敢えて言葉で表現せずに、前後の文脈から伝わるように工夫しました。
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私にとっては、エッセイはクリエイティブなものです。
事実と真実は違う。それを意識して、言葉を選び、構成を練って造り上げていくもの。
「エッセイの裏側」には表に出ない膨大な情報があり、それらを選別して、組み立てて、事実から逸れない程度に自由度を与え、読み手の想像力を刺激するものです。
これからもエッセイにこだわって書いていきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。