話を聴いて欲しい人
世の中には、とにかく話を聴いて欲しい人が多い。
寂しがり屋なのか?
それとも悩み多きお年頃なのか?
事情は人それぞれだろうが、人に話を聴いて欲しいという人が多いのだ。喫茶コーナーで、電車の中で、「話を聴いて欲し気な人」と「話を聴いてあげる人」の会話が聞こえてくる。
どうして、そんなに人に話を聴いて欲しいのだろう。それもひとつの承認欲求なのだろうかと思ってみたりした。
なぜこんなことを思うのかというと、私は、自分の話をすることがあまり好きではないからだ。
好きではないというよりも、むしろ嫌いである。自分のことを話すと「悩みがある人」のレッテルを貼られて気分を害したことが多々あり、自分のことを人に話すのが嫌になってしまったのだ。
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ただ話を聴いて欲しいだけ。うんうんって頷いて欲しいだけ。という話もよく聴く。だが、話を聴いてもらったらスッキリするとか、話したらスッキリするっていう感覚がどうにも理解不能なのだ。
効率最優先なだけでは味気ないと思っているので、不毛な時間になることを承知で「話を聴いて欲しい人」と会うこともある。
本当に困っているとき、誰かと話して気を紛らわせたいという衝動があることも経験的に知っている。
実際、生きるか死ぬかの瀬戸際で決断を迫られていたときの私はそうだった。結論はわかっていても、堂々巡りでも、「やはりダメなんですね」ということを確認するためにグダグダと先の見えない現状を話したことがあるのだ。
だから、「話を聴いて欲しい」を全否定はしない。ただ、カジュアルな感覚で「話を聴いて欲しい」というのは、どうにもピンとこないだけなのだ。
誰それの秘密を知ってしまったとか、痴話げんかの憂さ晴らしとか、そういうことを聴いて欲しい人の感覚がよくわからない。
そもそも、自分の時間は大切である。だから、他人の時間も大切。だから、そんなことくらいで他人の時間を使わせることなどしたくないのだ。
私は、話を聴いて欲しいとか、そういう気持ちになることはほとんどないから、ただ理解が不足しているだけかもしれないのだが、話を聴いて欲しい人の心情がどうにも理解できない。
もし、話を聴いて欲しいのなら、なんらかの目的(=ゴール)を決めてからにしてはどうだろうか?
例えば、然るべき相手と「話し合う」ための下準備として話を聴いてもらうとか、あるいは、自分なりに考えて出した結論が「独善的」になってはいないか判断して欲しいといった風に。
誰もが限りある時間を生きているのだから。