発信する恐怖との闘い
言葉を発することは恐ろしい。
note更新は、その恐怖との闘いである。
「正しいと信じている」ことを書いたとしても、また別な角度から見ればその正しさが危うくなる。これは当たり前のことであり、それを承知の上で書いている。だが、「別の角度か見たら誤りだ」と攻撃してくる人がいるのだ。
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物事はすべてにおいて曖昧である。だが曖昧だからといって実態が何もないわけではない。
どの瞬間をどの方向から切り取るのかという前提を明らかにしつつ、何らかの言葉を発する。それは気持ちであったり思いであったりする。
だが、先に述べたように、別の瞬間に他の角度から切り取ると、それは全く別の結論へとたどり着く。これは当然のことである。
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もちろん、明らかに「間違っている」ということもある。
どの角度からみたとしても矛盾でしかないことを誤って発信してしまうこともある。その場合は、訂正してお詫びする形になるだろう。
だが、そういう場合ではない矛盾を誤りとして攻撃をするのは、もはや攻撃するために攻撃しているとしかいいようのない態度である。
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立ち位置が変わるから意見が違うということは、むしろ大いに歓迎でもある。物事を立体的に捉える好機ともいえるからだ。
とはいえ、その場合は、それらしい表現があるだろう。違う違うと喧嘩腰になって意見する人。そういう人は、喧嘩がしたくて喧嘩を売りにきているのだ。
だから、買わないことしか策がない。
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買いたくない喧嘩を売られることは「発信」の宿命である。
言葉を発することは、恐ろしい。その恐怖と立ち向かい、乗り越えるよう自らを奮い立たせ発信することを選ぶ。
その覚悟を持てるかどうかの自問自答タイムが周期的に訪れ、覚悟を強くしていくしかないのだ。