「名前」を知ることの意味
気になっていた『路傍の草』の名前が判明した。
「ビロードモウズイカ」と呼ばれるのだそうだ。
2年かけて育つ外来種で、「ニワタバコ」という名前で日本に入ってきたのだという。現在はロゼット状であることから、今年は最初の冬。これから見た目が変化して背丈が伸びていく模様。
そうなってしまえば、邪魔な雑草として処分されてしまう可能性も増す。そろそろ見納めなのかもしれないなと道端の草の先行きを案じているところだ。
名前を知ることの「意味」
今回の草のように、名前が判ると、この先の様子がどうなっていくのか予測がつく。「調べる」ということができるからだ。
実際は、名前が判っても、見通しがつくことばかりではないだろう。今回のように管理者が曖昧な道端という状況なら、温かな配慮で案外生き延びるかもしれないのだから。
とはいえ、先行きは不透明ながらも、「どうなるのか全くわからない」という未知の情況とは違ってくる。
それだからか、名前を知ることでホッとするような何かを得たのだ。
「病名が判らない」という不安
何か体調に不具合があって病院に行っても「病名が判らない」という人は、周りにいないだろうか?
それに対して、病名が判ってホッとしたという人もいると思う。
体の病であれ、心の病であれ、病名が判ると安堵するものだろう。なぜなら、予後の見通しがつくからだ。
もっとも、治し方が定まっておらず、対処療法で様子を見るしかないという病もある。病名が判らないという症状を抱えている人は、そういう病であったということも多々あるだろう。
だから、病名が判れば万事OKというわけにはいかないのだろうが、それでも病名が判るというのは、なぜホッとするもののようだ。
「状況」を表す端的な言葉を見つけること
病気に限らず、目下遭遇している状況を表す端的な言葉を見つけることは、心によい影響を及ぼすように思う。
文章で説明することはできる。だが、それを一言でいうと何という言葉なのかを知らないというケース。そういうときに、「状況」を表す端的な言葉を知るのと知らないとでは違うのだ。
端的な言葉を検索してみても出てこないときの不安感たるや、相当なものだと思う。そして、その端的な言葉を知らないことで発生するストレスを自覚することすらできないのだ。
知ることで開ける未来
思うような「未来」以外は受け付けないという人なら、また話は別なのだろう。
それでも敢えて言う、「知る」ことで開ける未来があるのだと。
未来が開けるのではない。開ける未来があるのだ。
状況を表す端的な言葉を知るということは、暗闇でぐるぐると同じ場所を回らなくて済むということと近いのだ。
知ることで開ける未来が、自分の思うような芳しいものではなかったとしても、未来は未来である。
それこそが「名前」を知ることの意味なのだ。