無我夢中で努力をした記憶が今を援ける
何かの目標に向かって努力をしたことがあるだろうか?
欲しいモノがあるから貯金をするだとか。
好きな人と付き合いたいだとか。
努力という呼び方から少し離れているようなことでもよい。
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もちろん、高校の受験であるとか、希望の会社に採用されるとか、そういうことも努力のうちのひとつだ。
目標を達成するために必死になって自分を高めようとしただろうし、策を練ってあれこれと手を打っただろう。
そういう行為をまとめて努力と考える。
無我夢中で努力した記憶とはそういうものだ。
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けれども、その努力は必ずも実るわけではない。
お金を貯め終わったときには、欲しいモノが「モデルチェンジ」していて、手に入らないこともあるだろう。
本人の伺い知らぬ事情で「失恋」ということだってあり得る。
受験に失敗して悔し涙をすることもあるし、希望の会社が採用自体を行わなくない時期に就職活動をしなくてはならないこともある。
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悲しいかなそれが現実。
悲劇とは生きるということ。
そういっても過言ではないくらい「悲劇」は日常的なものだ。
当たり前の存在への無力感から自暴自棄になることもあるだろう。
けれども、「無我夢中で努力したという事実」は誰にも奪えない体験として自分の中に残るのだ。
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何かに向かって努力を重ねていたこと。
何かに向かって希望の光を心に抱きながら生きていた時間。
それらは、その後の人生を援(たす)けてくれる。
今の自分は何のとりえもないといって悲しい気持になるとき、切ない気持になるときに救われるのだ。「無我夢中で努力をしていた自分が存在した」事実は誰にも奪えないのだから。
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無我夢中で努力をした記憶が今を援ける。
無我夢中で努力をした記憶は未来をも援ける。
この先どんな未来が待っているかと不安になるときにこそ、過去の記憶を誇りに思おう。
自粛の日々を乗り越えた全ての人に、心からの祝福を。