しぶきの向こう

9 点滴、悪夢

 冷たい薬液の流れは徐々に無視しえないものになり、呼吸で腹がふくれるとそこにその水流がぶつかる冷たい不快な感覚がある。だからといって呼吸の数を少なくしようと大きく呼吸すると臓腑が肋骨にはさまれるような感覚があらわれるので、呼吸はますます困難になる。これらの点については医者に訴えてみても意味がないようで、どうしようもない。
 吸うことも吐くこともままならなくなって、どうやって呼吸をすればよいのかさえ分からなくなってしまう。ちょうど、右足を出せばいいのか左足を出せばいいのか分からなくなってしまった人がこけるしかないように、私はベッドの上で溺れている。
「た、たすけてください! 呼吸ができません」
 そう私が言うと、別の患者を往診中の医者がこちらに振り向いた。医者は呆れ顔で「いや、呼吸できるはずだよ。呼吸できない人はしゃべれないもの」と言うや、私の腹に手をあて、深呼吸するように命じた。すると不思議にあの不快な諸感覚は襲ってこなかった。
 するとやはりこの感覚は私の気のせいなのだ。落ち着いて深呼吸すればどうとでもなるような何でもない錯覚なのだ・・・・・・。
 ・・・・・・しかし、少しもせずに深呼吸してもなおその感覚が現れてくるようになった。じゃあどうすればいいのだ? 夜はまだ長い。

 私はまるで人間下水管だ。この薬液を通す人肉の管だ。半分夢に入りながらも現実の感覚に苛まれながらまわりをみると、私は棚の下のようなところにいてまわりには同じ境遇の人たちが沢山いる。棚は何段も上に広がっていて、そこにも人間がならべられている。これらは奴隷としてつれてこられた女子供たちで、直列つなぎでその液体を流す管の役割を果たしているのである。
 うめき声がきこえる。
 一定の間隔で、一定の高さの音が鳴っている。
 見ると、横に立てられた点滴の機械がその音の源で、薬液の流れと音とには何かつながりがあるらしい。
 長い苦闘のすえ、薬液が体を通り抜けるその瞬間に息を吐くことで不快な感覚を回避できることが分かった。吸って、吸って、吸って、吐く。小さく三回吸って大きく吐く。四拍に一度鳴る音に合わせて吐くこと、これが肝要なのだ。
 そして、あのとき医者の指示通りに深呼吸をして何ともなかったのも、これがためなのだ。彼はこの音に合わせて私に深呼吸をさせたのだ。すると、彼は薬液と不快な感覚のつながりが分かっていながら、単なる気のせいだ、落ち着け、深呼吸でもしてろと指示したのだろうか? それとも腹にのせた手に合わせて深呼吸するようにと命じたときに、同時に何拍で呼吸すればよのか教えた気になっていたのだろうか?
 それはともかく、吸って、吸って、吸って、吐く、というこの簡単な方法も、実行するのはけっこう難しかった。一度崩れてしまうとなかなか元のタイミングにもどることができないのだ。そして私が呼吸をくずして液の流れを阻害してしまうと流れが半拍ほど遅れてしまうので正しいタイミングで呼吸をしていた下流の人々も被害をこうむってしまう。

 看護師がきて、この薬液が使いきれたら点滴は終わりだと言う。私はその言葉に一縷の希望を託して耐えた。しかし、ついに薬液が空になってもその感覚はまだ続いている。体に薬液の流れがすりこまれてしまって自分の体液自体がそれと同じ具合に流れるようになってしまったのだろうか。この余波はいつ止むのだろうか。

 暗い部屋は照明の影響で赤くみえる。天井はおそろしいほど高く、カーテンが高くて見えないその一番うえから垂れ下がっている。カーテンは、まるでスキージャンプの急傾斜面のように足元から遠く彼方へのびている。液の流れを呼吸の波になめらかに乗せること、自分の体を通過するこの厄介なサーファーを引っ掛けずに流すこと、それが肝要だ。
 私は目を開けながら夢を見ている。私は部屋で寝かされていると同時にスキージャンプの選手で、しかもムカデ競走のように数人と同じスキー板を共有していおり、呼吸を決まったタイミングで入力しなくてはならない。そうすることで、ジャンプ台に何個もあいている穴を飛び越えることができるのだ。だがこのタイミングが恐ろしく難化しており、吸・吸・吸・吸・吸・吸・吸・吸・呼・呼・呼・呼・吸・吸・呼・呼・吸・呼・吸・呼のようなのを十六分音符のリズムで連打しなくてはならない。もちろん一度も成功しないのだが、しかし何度でも何度でも挑戦させられる。そして何度でも何度でも失敗し滑落する。

 目を醒ますと、私は布団のなかにいた。布団がやけに大きく感じられ、病室はさきほどとうってかわってこぢんまりとしている。照明の影響でおおむね部屋は赤い。どうやら私はまた集中治療室にいるのではないか? なんでか分からないがそうなってしまったのではないか? もしもそうならば、またこれから吐いたり食事に手こずったり点滴に苦しんだりすることになる。このままでは何度もそういうことになるのではないか。
 早いところ回復してこのループから抜け出さねば。私は日中に聞いたように、体をよこにして手に体重をあずけて起き上がった。そしてベッドの脇に座った。姿勢を変えれば体内の感覚もやわらぐかもしれないと思ってのことだが、この予期は当たっていた。すこしすずしく、それが心地よかった。
 くらやみの向こうから懐中電灯をもって巡回している看護婦がやってきた。「こんな時間に動き回ったらだめでしょ」と言った。

 私はまた寝た。

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