ここすき

ここすき3 「ジャガーマンシリーズ」の「ここすき」

あー ここすき            
               ――デビルマン

 私は「けものフレンズ」が好きだ。私は「ジャガーマン」が好きだ。そしてそこから派生した動画群、通称「ジャガーマンシリーズ」が好きだ。さらに、ジャガー以外のキャラクターを対象とするようになった「ジャガーマンシリーズシリーズ」も好きだ。そして、「けものフレンズ」とはもはや関係ないが、自分の好きをただただ叫ぶ「ジャガーマンシリーズシリーズ外伝」も好きだ。
 「けものフレンズ」というアニメについては読者はおそらくご存知だろう。二〇一七年に放送されたアニメで、人のいなくなったサファリパーク型動物園「ジャパリパーク」でかばんちゃんとサーバルちゃんがドッタンバッタン大騒ぎするアニメだ。だが、「ジャガーマン」について知っているかとなると、人が限られてくるかもしれない。
 九月二日、春にはじめての放送が終ってから五カ月は経ったその日、ニコニコ動画の日記カテゴリに「ジャガーマン」という動画が投稿される。これは一九七〇年代に放送されたアニメ「デビルマン」のオープニング主題歌にアニメ「けものフレンズ」の音声などを貼り合わせてつくられたMAD動画であり、「けものフレンズ」のキャラクター、ジャガーへの愛をただただ表現している。その動画の投稿の数日後に、同じ投稿者が今度は「ジャガーン」という動画を投稿する。これは同じく七〇年代のアニメ「新造人間キャシャーン」のオープニング主題歌をベースとしたものだ。二〇〇〇年代前半のflash黄金時代の動画を彷彿させる奇妙なテンポ、あまりにも直截的に表現されるジャガーへの愛、これらの奇妙な動画は視聴者を少しずつ魅了していった。
 その月の中旬には、たくさんの他の投稿者が「ジャガーマン」に追随して新たな動画をつくるようになっていた。「ジャガーダマン」「ジャガるポンポコリン」「おジャガ女どれみ」などなど、今日では(二〇一八年十月)これら通称「ジャガーマンシリーズ」の動画は二千七百件を超える。さらには、対象をアルパカやカピバラ、チベットスナギツネにした類似の動画(通称「ジャガーマンシリーズ外伝」あるいは「ジャガーマンシリーズシリーズ」)まで生み出され、それどころか「けものフレンズ」とは全く関係のない自分の推しているキャラクターを「ジャガーマン」の形式でもって称える動画(通称「ジャガーマンシリーズシリーズ外伝」)までも、最終的に世に現れるようになる。
 なぜこのようなブームが起こったのだろうか。「ジャガーマン」の感染力はどこにあるのか。
 自分の好きなものをただただ推し出し、その愛をただただ詰め込む。こんな動画もありうるのかと、私ははじめてこれらの動画をみたとき驚いた。そして、その愛をどこまでも愚直に表現したのが「ここすき」という一言である。動画のラスト、ジャガーの困り顔に、デビルマンが歌う(十田敬三の歌唱を切り貼りして作られた音声だから、こう表現してよいのか分からないが)。「あー ここすき」。おそらく「ジャガーマン」の感染力はここにあるのだ。「ジャガーマン」の「ここすき」を目にした者は、自分の「ここすき」を自分なりに表現したくなる。「ここすき」が「ここすき」を生む連鎖が、この感染力なのだ。
 「ここすき」というフレーズそのものは二〇〇七年からニコニコ動画に存在する。「けものフレンズ」の放送時にも既にオープニング中の「夕暮れ空に指をそっと重ねたら」のシーンで「ここすき」の弾幕が流れたものだ。
 「ここすき」。「ここ」が「すき」。ごく平凡で率直な感想である。実際、この短い言葉は本当に別の誰かが遠い昔に口にしたとしてもまったくおかしくない。だが、この言葉が爆発的に広がり一フレーズとして定着したのは、あくまでも現代のニコニコ動画においてであった。一体何故だろうか。
 このことは他の動画サイトと比べてみれば一目瞭然である。ここすき。これはただの感想だが、この感想を他者と共有するためには「ここ」についての共通認識がなければならない。このとき、たとえばYouTubeなら、動画の何分何十秒の○○のシーンすき、という具合に表現しなければならないだろう。そして、それは説明のコストが高いわりに理解してもらえる可能性が低いコメントである。一方でニコニコ動画は、まさに動画の「ここ」でコメントを打ち込むことができる。「ここすき」は最小のコストで最大のリターンを望めるコメントなのだ。
 ニコニコ動画の特質は、しばしば「擬似同期」という言葉で表現されている。さまざまな時間帯に投稿されたコメントがただその動画内の時間とともに流れ、「さも同時にみんなで同じ動画を見ている」と感じさせる「擬似同期」を実現させる。この「擬似同期」は、たとえば弾幕という一斉に同じコメントが流れる文化に見られるようにニコニコ動画の重要な性質である。
 だが、この「擬似同期」を支えているのは、動画のどの一秒、どの瞬間にもコメントすることができる、というニコニコ動画のより基本的な条件である。ニコニコ動画には不人気な動画なんて山ほどある。第一、どんな動画も投稿されてしばらくの間は――投稿者が有名でない限り――同じような状態だろう。ほとんどの動画は「擬似同期」が十分に機能しない時間を過ごさねばならない。
 「ジャガーマン」もまた、初期はそう人気のある動画には見えなかった。だが、感染者たちは初期から少しずつ現れ、「ジャガーマンシリーズ」は視聴者やコメントが少なくてもみるみるうちに増殖していったのである。このことを踏まえたとき、私はニコニコ動画を「擬似同期」によってではなく、「あらゆる瞬間がコメント欄である」というより基本的な条件において考え直さねばならなくなる。
 この条件について考えるとき、最初に思い当たるのが、ニコニコ動画では空耳をネタにしたコメント、弾幕をやたら見かける、ということである。アニメのオープニングやエンディングで流れる弾幕も、その多くは空耳ネタであるし、そもそも最初期のいわゆる「初代御三家」(「レッツゴー!陰陽師」、「ミュージカル・テニスの王子様」、「きしめん」)がブームになったのは空耳あってのことである。半裸の男たちがパンツを奪い合う動画群(「レスリングシリーズ」)が釣り動画からそれ自体楽しむネタになったことにも、空耳の存在が欠かせない。
 そして空耳というネタが通用するためには「あらゆる瞬間がコメント欄である」という条件が欠かせない。空耳というのは大体が無理矢理である。冷静になると、「いや、そうは聴こえないだろう」というレベルのコメントもニコニコ動画には山ほどある。だが、音声と同時に字幕としてコメントが流れていると、今度は逆に本当は何と言っているのかがまるで分からなくなってしまう。これが空耳の面白さである。
 「あらゆる瞬間がコメント欄である」。この条件は空耳だけを生むのではない。それはニコニコ動画のコメント全般に見られる特徴を生み出している。それは見ている動画に対して、その作品全体について反応するのではなく、一瞬一瞬の挙動やネタについて反応することの方が多いという特徴である。
 だが、それはよいことばかりではない。普通、われわれは本でも映画でも、あるいは人の言葉でも、その全体の意味・意図を把握した上で応答しようとする。だが、ニコニコ動画では、その一つ一つの発言やふるまいを断片的なまま全体的な意味につなげずに応答することが可能である。というより、むしろその方が容易である。その結果、しばしばトンチンカンで不毛なコメントが流れてくることになる。「視聴者様」とか「名人様」と呼ばれる動画を手前勝手に批評する人々は、動画の一シーンだけを見て「下手」だとか「もっと早く」だとかコメントを打つ。動画のコンセプトすら理解せず、たとえば武器の使用を制限している実況動画に、はやく武器を使え、といったコメントをする。これらもまたこの条件の生む景色である。
 このように「あらゆる瞬間がコメント欄である」という条件を眺めてみたとき、ことによるとこの条件はニコニコ動画でとくに顕在的になったにすぎないのではないか、という思いがよぎった。つまり、インターネットのあらゆる場所が潜在的にこの条件をはらんでいるのではないか、そう思ったのである。
 われわれは ある文章の一部をコピペして、あるいはスクリーンショットして別のところに貼りそれにコメントをつけることができる。これは、インターネットの日常の風景である。われわれは断片を切り出してそれに反応する。そして、このように潜在的にすでに存在した条件を技術的に支援したのがニコニコ動画であるといえる。
 同じ方向に向けて発展していった技術として、たとえばTwitterをあげることができるかもしれない。ここではわれわれはある人の言葉のたった百四十文字の断片にだけ反応することができる。
 このことは、「哭きの竜」の時代から予感できたことなのかもしれない。多くの人はログのすべてを見通すことができない。多くの人はこの膨大なやり取りを、常に発生するノイズをかきわけて追いかけることはできない。この事実から「哭きの竜」が結論するのは自分のような「あらすじ文学者」への要請と登場である。この予言は部分的には正解である。だが実際にはこれに、断片に対しただ断片的に反応することを容易にするツールの発展が伴っている。
 この二者はしばしば相補的である。たとえばTwitterのやりとりをまとめるTogetterや、5chの内容をまとめる大小さまざまなまとめブログ。ここではやりとりの一部分だけを切り取ってそれに対してだけ反応することができる。だが、同時にその「切り取り」に際して「あらすじ文学者」的な恣意が入ってくることは避けられない。
 このように、この条件を眺めてみたとき、私は思わず暗澹たる気持ちにならざるをえない。ノイズを回避して、ただただ目の前の断片だけを相手にすることを可能にするツールは、しかしそれによってさらにノイズを生み出すことになる。
 われわれはどうするべきなのだろうか。このような無数の断片の散乱に対して、確固とした全体像の復権をもくろむべきなのだろうか。
 しかし、そのような試みは果たして成功するだろうか。加えて言えば、断片に目を向けやすくなることそれ自体が悪いことだとは思えない。
 私はすでに「可能性の中心」という言葉について論及した。そこで私はこの言葉を商品の「神秘性・魔術性」を指すものとして理解し、そこからキャラクターの「神秘性・魔術性」を「キャラクターの「可能性の中心」」と表現する村上裕一に同調した。
 だが、柄谷行人の文章に立ち返ってみると、実際にはこの言葉は柄谷行人がマルクスを読むその動き、そして、マルクスがエピクロスを、また資本主義を読み解くその動きについて表現したものであることが分かる。「可能性の中心」とは、「魔術性」という捉えがたいとはいえ対象的な何かではなく、「「断片」としてのテクスト」*1を読む動き、「大きな思考の枠組みにおいてでなく、”微細”な差異において読もうとする」*2動きそのものについて表現しようとした言葉なのだ。
 今、われわれは断片を読み応答することを支援するさまざまなツールに取り囲まれた環境にいる。だが、このことのもたらした現実は柄谷行人の試みたこととはまったくかけはなれている。これは単に、ポストモダン的思想が、ポストモダン的現実に追いつかれ裏切られただけのことなのかもしれない。しかし、さりとて、微細なもの、断片的なものに目を向けようとする動きそのものを私は否定しえないのだ。
 さて、「ジャガーマン」であった。「ジャガーマン」はこのような条件、環境に支えられている。だが「ジャガーマン」はこの条件のすべてをただ「ここすき」と叫ぶためだけに使う。「ここすき」と歌い、遊び楽しむだけに使う。これもまた柄谷行人の試みたこととかけはなれているだろう。だが私は、キャラクターの「可能性の中心」があるとしたら、もしかするとここにあるのではないか、とふと思うのである。
 「けもの」たちは弱肉強食の果てに爪や牙を研ぎ澄ませ、脚力・ジャンプ力を鍛え上げていった。「フレンズ」たちはそのすべてをつかってただ歌い遊ぶ。同じようにわれわれも、インターネットの条件をすべてつかって、ただ遊び楽しみ、「ここすき」と歌うことができる。
 これは希望なのだろうか。たしかなことは何も言えない。ただたしかなことは、ジャガーはかわいいということ、今はそれだけである。

*1 柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)、16頁。
*2 同上書、121頁。


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