おひさまのにおい
「詩野、出掛けるの?」
小学校から帰宅した詩野は、ランドセルを置いてすぐにまた靴を履こうとしていた。
後ろから掛かる母の声に振り返る。
「ようちゃんちに行くの」
行き先は大人の足なら10分、1年生の詩野の足ではまだ20分以上かかる場所。
母は慌てて車のキーを取りに行った。
手土産にお菓子をいくつか詩野に渡す。
幼稚園からの幼馴染とはいえ、何も持たずに行かせるわけにはいかない。
ここは田舎、町内の付き合いも濃い。
「17時頃に迎えにくるからね」
「うん、いってきます」
母への挨拶も適当に、詩野は車を降りて青い屋根の家へ一目散に駆けていった。
瑶の部屋は、2階の陽当たりのいい部屋だ。
壁には大きな本棚があって、まだ詩野にも瑶にもわからないような難しそうな本もある。
2人がよく読むのは、1番下の段にある図鑑。
「ようちゃん、今日はどれを見るの?」
「しのちゃんはどれがいい?」
昆虫、動物、鳥、恐竜、星座。
背表紙を辿りながら聞き合う。
「そういえば今日はしょうちゃんは?」
詩野の質問に、瑶は少し俯いた。
「…しょうちゃんは、他の子と遊ぶって」
将哉と瑶と詩野、3人は幼稚園に詩野が転園してきてからずっと仲が良かった。
お互いの家を行き来し、同い年の女の子が町内に詩野しかいないこともあり、互いの親も仲が良い。
しかし小学校になって別の幼稚園や保育所からの友達が増えて、将哉は瑶を揶揄うようになった。
少しだけ体型が丸いこと、大人しいこと、外遊びより本が好きなこと、詩野と仲が良いこと。
「ようちゃんの方が、しょうちゃんと仲良かったのに」
詩野の呟きに、瑶は困ったように笑った。
「しのちゃんだって」
「しのはいいの!だってしょうちゃん、ようちゃんが何も言わないのをいいことに言いたいほうだいじゃない!」
瑶の優しさにつけこんでいるようで腹立たしいのだろう、詩野は立ち上がって空を睨んだ。
「今日だって…」
悔しそうに小さな手を握りしめる。
詩野が将哉に、瑶の家に遊びに行こうと誘ったら
「おれはもうおんなとは遊ばねぇよ!」
と言って
「ようはおとこおんなだからな!」
などと揶揄い始めた。
詩野はあまりに腹が立ったから、瑶の手を引いて学校から走って帰った。
「しのがおんなのこだから、ようちゃんがいじめられるの?」
途端に不安そうな顔になる。
瑶は立ち上がって、同じくらいの背の詩野の頭を撫でた。
「しのちゃんのせいじゃないよ。ほら、本見よう?」
困ったようにまた瑶が笑うから、詩野は不安を振り払うように笑顔で頷いた。
「今日はきょうりゅうの図かんにしようよ」
「ようちゃんはきょうりゅうが好きだねぇ」
詩野が持ってきたポッキーを食べながら、ページを捲る。
ブラキオサウルス、プテラノドン、ステゴサウルス、トリケラトプス、ティラノサウルス。
詩野の家に恐竜図鑑はないが、瑶と一緒によく見るので覚えてしまった。
ポッキーと並んで置かれたグラスには、ふたりの大好きなオレンジジュース。
同じタイミングでポッキーを食べ、オレンジジュースを飲む。
まだ5月だが、冷たいジュースには氷が入っている。
「ようちゃんの今のお気に入りは?」
ポッキーを齧りながら、瑶は首を傾げる。
「今はねぇ…」
ペラペラとページを捲り
「これ!」
と指差した先には、アンキロサウルス。
「アンキロ…サウルス?」
「うん」
「どういう子なの?」
瑶は顔をキラキラさせて話し始めた。
首から背中、尻尾にかけてうろこで覆われていること。
後頭部に3本の角があること。
尻尾の先端には平らなハンマーのようになった骨があって、それで肉食恐竜を攻撃していたこと。
「たぶん草食なんだ」
「たぶんなの?」
「うん、たぶん」
図鑑に描かれたアンキロサウルスの絵を見ながら、ふたりでうんうんと頷き合う。
「ようちゃん、今日はベランダに出てもいい?」
詩野の家は平屋造りなのでベランダが珍しい。
瑶の家に来るといつも、ベランダから景色を見ていた。
「いいよ、今日はおふとんが干してあるんだ」
瑶が立ち上がり窓を開ける。
まだ高い陽射しに白いシーツが反射して、詩野は目を細めた。
「きもちよさそう」
「うん、たぶんきもちがいいと思う…降りてみようか」
「…どこに?」
ベランダの先には屋根しかない。
遠くからでもわかる、瑶の家の青い瓦。
「かんたんだよ」
そう言うと瑶はえいっと体を持ち上げて、ベランダの柵を軽々と超えて屋根に降り立った。
「えっ出られるの!?」
町内で有名なお転婆の詩野でもそれは思いつかなかったというように驚く。
瑶がベランダの向こうから手を差し出した。
「しのちゃん、来られる?」
青い瓦屋根の上に立って詩野の手を待つ瑶は、まるで王子様みたいなポーズ。
しょうちゃんもこのようちゃんを見たらいじめないのかな。
そんなことが一瞬詩野の脳裏をよぎった。
「しのちゃん?」
不思議そうに詩野を見る瑶の手を右手で握って
「今そっちに行くよ」
と詩野は笑った。
ベランダの向こう側に干してある布団は、朝から置いてあったのだろう、ぽかぽかしてふわふわだった。
「あったかいね」
「そうだね。みよおばちゃんにおこられないかな?」
「へいきだよ、ぼくがあやまるから」
布団に並んで寝転がりながら、瑶は笑った。
並んで寝転び見上げる空はどこまでも青くて、雲はわたあめみたいにふわふわと浮いていて、その流れるわたあめを見ていたら、ふたりとも徐々に瞼が閉じていった。
「…ちゃん、詩野ちゃん!」
瑶の母の声がした気がして、詩野は目を覚ました。
「…ねちゃった…」
瞼を擦りながら起き上がると、隣でまだ瑶は寝ている。
「詩野ちゃん、動かないで!大丈夫!?」
振り返るとやはり瑶の母で、いつも菩薩のように優しい顔をしているのに今は大慌てだ。
「どうしたの、みよおばちゃん?」
詩野の質問に一瞬呆気に取られた瑶の母は、ため息をつきながら
「…とりあえず瑶を起こしてくれる?」
とだけ言って、苦笑いをした。
「詩野ちゃんはあんたと違って女の子なんだから!怪我したら困るでしょ!!」
「ごめんなさい…」
「しのが出たいって言ったの、だからようちゃんはわるくないの!」
「ちがうよ、ぼくが言ったんだ」
瑶の母に怒られ、瑶が謝り、詩野がそれを庇い、その詩野を瑶が庇う。
やれやれと瑶の母はため息をついた。
仲が良いのはいいのだけれど、と。
「うーん…まぁいいわ、ベランダはもう越えないこと、約束できる?」
目線を合わせて瑶の母に言われ、それでもう瑶が怒られないのならばと思った詩野は、必死で頷いた。
迎えに来た母にまたこっぴどく怒られたのは言うまでもない。
瑶の母に言ったことと同じことを言うと、今度は
「そんなことわかってるわよ!」
と言われて、詩野は少し複雑な気持ちになった。
「みよさん笑って許してくれたし瑶くんが悪いって言ってたけど、お母さん恥ずかしかったんだから!」
「…はい、ごめんなさい…」
「全く、どうしてこんなにお転婆なんだか…」
車で家に向かいながらぶつぶつと文句が続いている母を見て、詩野は教えたくなった。
「ねぇ、ママ」
「何よ?」
「おひさまのにおいがして、とーってもあったかかったよ」
*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。
《追記》
おまゆさんがこの「おひさまのにおい」を朗読してくれました。
わたしの中にいた詩野と瑶に、みよさんに、詩野の母に、命を吹き込んでくれました。
あたたかく優しい声で、詩野が瑶に話しかけている。
瑶が詩野に応えている。
それだけでわたしはとても嬉しくて、初めて聴いた時に泣いてしまいました。
今日は少し曇りがちだけれど、14時頃の今、我が家の付近は晴れています。
まゆちゃんからの最高のクリスマスプレゼントです。
本当にありがとうございます。
柔らかい陽射しを言葉から感じながら、ぜひ聴いてください。
初出:2019/10/9
追記:2019/12/25
2019/12/24