呑み書きじゃなくちゃ書けない ♯呑みながら書きました
前回の「呑み書き」で、愛とは何かということをちょろっと考えてみた。
9月28日。3か月も経っていない。
そんな短期間で答えが出るものだとしたら、結婚してからずっと考え続けることもないので、勿論答えなど出ていないし、もしかしたらこれからもずっと考え続けるものなのかもしれない。
「わたしなりの答え」が見つかる予感は、まだない。
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愛しているということを伝える方法は、沢山あるような気がしている。
並べてみればきっと沢山ある気がするのに、わたしの中にそれはとても少ない。思い浮かべようとして、浮かんでくることが少ない。
でもそれはわたしが愛されていないということではない。彼に訊ねれば、「勿論好きだよ」という言葉が返ってくる。その言葉を信じていないわけじゃない。
けれどわたしはどこかで、わたしたち夫婦の想いについて冷静に見ている。
欲望が大き過ぎるだけなのかもしれない。
例えば、もっと「好き」を言葉にしてほしいとか。彼から抱きしめてほしいとか。手を繋ぐのはたまには彼からでもいいんじゃないかなとか。触れてほしいとか。
愛される、ということはどういうところで感じるものなのだろう。
愛されていないと思っているわけではないけれど、どろどろに甘やかされて愛されてみたいと思うのは、いけないことだろうか。欲張りだろうか。
愛ってかたちがあればいいのに。目に見える何かが、その相手との間にだけ何かあればいいのにって思う。
全部見えてしまったらつまらないと思いながらも、この手にあるのが愛なのか、この人から向けられているのが愛なのか、断言できないままでいることに不慣れなまま、結婚7年目を過ごしている。
この胸の中にある、どうしようもなく叫び出したいような気持ちを伝えられたらまた何か変わるのかもしれないけれど。わたしはきっと夫にそれを伝えられない。正確には、かたちを変えて伝えてはいるけれど、彼にそれが伝わったと思えたことがないのだ。
一途に。真っ直ぐに彼を想い、それを伝え、同じ温度感でそれが返ってくるのを期待してしまうのは、お返しを期待している子供みたいでとてもいやだ。けれど、人間関係に期待なんて長い間したことがなかったけれど、彼には、わたしと結婚してくれたこの人には、それを求めたくなってしまう。それはいけないことなんだろうか。
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恋愛面での愛に悩んだり苦しんだりすることは本当に多いけれど、人としてわたしは愛されているのだなと感じることが、今年に入ってとても増えた。家族や夫以外のところから、まるでびっくり箱みたいに。
noハン会やオフ会で、noteの街の住人と会って。「好き」を伝えると、「好き」が返ってきた。優しさを沢山貰い、身に余るほどのぬくもりと幸福感でわたしの心は満たされた。あまりの優しさに、時々どうしたらいいのかわからなくなることがある。それでもそれを「そのまま受け取っていいんだよ」と寄り添ってくれる人たちが沢山いて、世界の優しい面に触れた。
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優しさとぬくもりと、人のあたたかさ。
そういうものに触れながら生きているのに、生きていてよかったとすら思うのに、恋がなければ愛がなければ生きていけないなんて思ったことはないのに、愛を求めてしまうこの矛盾をどこにも置いてこられない。
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「♯呑みながら書きました」企画に参加させていただきました。本祭りがnoハン会の前日夜だったから書けないなと思っていたので、後夜祭を設けてくれて嬉しかったです。
まぁ、お酒呑めないから、午後の紅茶レモンティースパークリングでだけどね☆
…酔ってないから誤字脱字ないかもね?
2019/12/13