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それはとっても難しくて。

他人に「寄り添う」のと「傲慢」は紙一重。
あまりに両極端だけど、これは私の持論。


高校時代、私の友人が突然学校に来なくなったことがありました。これは不登校というよりはどちらかと言えば「休養」に近い扱いです。
それからしばらく経った時、私はまた突然に、彼女のサポーターを依頼されました。なぜ私が?という思考は拭えないまま(というのも、その友人には中学時代からの友人もおり、サポーター役がなぜその子ではなく高校で突然会った私なのか?って話です)それでも何故だかは知らないけれど彼女が私を信頼に値すると判断したのなら、私はそれに精一杯応えよう、ということになりました。

この友人は本当に真面目な子で、勉強に集中すると言ったらとことん集中する、決めた目標に届くための努力を怠らない、そしてすごく物静かな子でした。
そしてサポーターになって初めて知ったのは、彼女とは音楽の趣味がよく合うようだ、ということでした。

2年生になって進級し、彼女も一旦学校に復帰しようかという流れになったのですが、結局始業式の日に一日登校したっきり、また何もかもがリセットされてしまいました。
そんなこんなで秋に差し掛かり、授業に一コマも出ていない彼女は留年が確定してしまいました。

私は彼女と一緒に3年生になりたかったし、また学校に普通に来てもらいたかったからこそサポーターを頑張って務めていた、つもりでした。ただ彼女の留年が確定した時にはもう何もかも崩れたのをよく覚えています。

彼女のカウンセラーの先生のところへ飛び込んで大泣きしました。

私は彼女とずっと一緒にいて、でもいることしかできなかった。一緒に3年生になりたいねって、言えばよかった?でもそれだってきっとまたプレッシャーになっちゃうでしょう?だから言えなかった。また学校に来てほしいな、なんてそれはただ単純に私の願望だ、彼女のじゃない。私には日常の風景である教室の騒音も、女の子たちのおしゃべりも、彼女にとっては耐え難い苦痛なんだって、私はそう聞いたけれど、やっぱり最後まで理解できなかった、してあげられなかった…。

カウンセラーの先生はただただ、あなたはよくやった、と。そしてまだ彼女がここで、あなたのサポートを必要だと言っている。大好きな友人だからたくさんお喋りしたいって言ってる。だから、そんなことは考えないで良いんだよ、とおっしゃってくださいました。

担任の先生には最後にこう言われました。
お前は「優しい人」だ、と。ただこの先この世の中を生きていくのには「優しさ」だけでは決してやっていけない。この時に必要なのが学力であり、知識だ。と。
後半部分は置いといて、私が「優しい人」と評されたのは、どうしても理解しきれませんでした。
だって私は、彼女が私に友人として全幅の信頼を置いてくれたから、私は友人としてその信頼に同じ分量で返そうとしたという、ただそれだけなんです。本当に、ただそれだけ…。


大学時代
痛む手首、失った心の拠り所、そんなことお構いなしに降りかかる日常の様々な問題の数々…。といった日々の中で、突如「彼氏」という人物ができたことがありました。はい、過去形なので、お察しくださいませ。
この彼は本当に悪い人ではなかった。どちらかといえば、とても気さくで、明るくて、親切な人…って印象ですかね。
私はこの「日常の諸問題」について深く悩んだ時期があり、これについて元彼さん(という呼称で良いのかな)は「いつでも相談してよ」「なんでも言って」と、そう促してくれました。
でも、少し考えれば分かるのですが、「いつでも」にも「なんでも」にも「限度」は存在します。これが「ただの友人」ではなくて「恋人」という関係性なら、なおさら。多分、だけど。
特に私の場合、「日常の諸問題」は積もり積もるとひたすら、聞いてる方がメンタルを削られる類のものでしたので、色々と気にした私は途中から話すのを控えていました。

この「話すのを控える」といった事は、私にとっては「問題から目を背け逃げる」ことを意味し、彼にとっては「恋人に避けられた」「信用されなくなった」ことを意味しました。私にはそんなつもりは無かったのですが、もう今となっては何もわかりません。

ねえ、どうして急に何も言わなくなったの。悩んでるんだろ、ねえ話してよ。
そんな彼のありがたい申し出に、私は「放っておいてよ」と返していました。言いたくなったら言うから。だから今は放っておいて。
…なんという酷い恋人でしょう。あまりにも手酷すぎませんか。


当時の私にはどうしても嫌だったことがありました。それは、彼に悩みを話した時に決まって言われたこのセリフ。
「ああ、分かるよ。本当に、大変だね」

きっと何気ない会話なのでしょう。恋人同士なら至極真っ当な、そして悩みを聞いている側としては「そうとしか言えない」セリフでした。そして、私はこんなことを思っていたのです。

あなたと私とじゃ、生きている世界がまるで違う。目の前に線を引いて、私が「こっち側」あなたが「向こう側」。向こう側の人間にこっち側の話がわかるはずない。貴方は私の話を聞いて、私の身に起きた出来事の「上っ面」をなぞっているだけ。でも貴方に私の話は一生「理解」できるものか。

生まれも、生活のスタイルも何もかも違う。根付いた価値観も違う。だから、きっと、仮に同じ景色を見ていたとしてもそれに対する感じ方は180度異なるだろうし、そもそも同じ景色すら見られないかも知れない。
今まで何かに悩んだ事なんかない、と明言できる人には特に、現在進行形で悩んでいる人の気持ちが分かるわけない。この場面では明らかに、様々な点(例えば「悩みがないという状況」や「何かを失ったことがない」という過去)において、貴方は「勝者」だ。圧倒的優位に立つ人が、そうでない人に掛けられる言葉なんてたかが知れてる。
同情のような「理解を示す」言葉、慰めの中に見え隠れする無意識の「傲慢」。

「ねえ、どうか悩んでいるなら話して。お前を助けたいんだよ」
と言われた時、私は言いました。
「今の貴方に何ができるというの?助けるって何?どうやって?教えて、貴方はどうしてそんなにも傲慢になれるの?」

差し伸べられた手をわざわざ振り払うなんて、本当になんとも酷い恋人だ、としか言いようがないですね。本当に、酷い。


最後に別れた時、私はこう言いました。(振ったのは私です)
私の人生にこれ以上、1ミリたりとも巻き込みたくない。貴方は未来ある素晴らしい人だ。だからこそ、私の人生に関わらせて大変な思いをして欲しくない。それに「貴方を私の人生に関わらせてしまった」という点において私の苦痛が限界値を超えてしまった。

やり直せはしないのか。いくら巻き込んでくれてもいい。いやむしろ巻き込んでくれ。俺は構わないから。と説得されたけれども。


私にはもう何も言えない。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。どうか、どうかお元気で。



きっと、人を助けるなんて、そんなの実際には誰にもできないことで。
多分自分を助けられる(救える)のも守れるのも、最後には結局自分でしかないんだと思っています。思ってるというか、そういうふうに生きてきたんです。今まで。

だからなんだよって話だけど。
ただ、私にできたのは単なる友人の「サポーター」でしかなく
そして私の方に手を差し伸べてくれた人には「傲慢だ」と吐き捨てたという何とも形容できないお話です。

多分高校時代の私だって、見方によっては「傲慢」だったに違いありません。だってあの時の私は「普通に学校に通えている人」で、彼女にとって苦痛だった教室の騒音や他の色々は、私には最後まで理解できず、それでも私は彼女の「サポート」をしていたのですから…。


ああ、なんて難しいんだろう、と思います。
傲慢にならないことも、傲慢を自覚することも、その傲慢を許容することも…。
支離滅裂に見える、何もかも。

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