謎の一族"秦氏"と、『日猶同祖論』
皆さんは『秦氏』という一族をご存じでしょうか?
秦氏は第15代応神天皇のときに、大陸から渡来したと言われており、
この時10万(19万ともいわれている・諸説あり)もの人々が日本に帰化したと伝えられています。
秦氏は非常に有力な一族で、高度な技術力と豊富な経済力を持ち、
平安京は秦氏の力によって事実上作られ、
仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があったそうです。
また、天皇家に協力して朝廷の設立や山城国等の開発などに
大きく貢献したとされています。
ところが、この一族の出自についてはよくわかっておらず、
秦始皇帝(しんのしこうてい)子孫という伝承をもつ弓月君(ゆづきのきみ)が多数の民を率いて渡来したのが由来とも、
5世紀中頃に新羅から渡来した氏族集団とも言われていますが、
定かではありません。
また、景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)まで存在し、謎が多い一族なのです。
今回、僕は京都にある秦氏ゆかりの地巡りをしてみる事にしました。
◆蛇塚古墳
蛇塚古墳は全国的にも有数の規模を誇る横穴式石室をもつ古墳で、
古墳時代後期の7世紀頃に築造されたと考えられています。
蛇塚の名称は、かつて石室内に蛇が多く棲息していたことに由来し、
最大の特徴は石室を構築する石材の巨大さです。
本来、石室は墳丘盛土に覆われているはずですが、
蛇塚古墳の墳丘は既になくなってしまい、石室だけが地表に露出していて、
一辺3メートルを超える巨石を2段程度積み上げて構築されています。
残念ながら、これまでの調査では蛇塚古墳に葬られた人物を特定する証拠は見つかっていませんが、聖徳太子の側近として活躍した秦河勝(はたのかわかつ)が埋葬されていたという説もあります。
ちなみに、事前に申請すれば、古墳の内部を見学する事が出来ます。
問合せ先:文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課
(電話/075-222-3130)
古墳のある場所は住宅街のど真ん中、
鍵を管理されている保存会会長のお宅もすぐそばにあります。
https://www.google.com/maps/place/%E8%9B%87%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3/@35.0119133,135.7001677,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xcbe240e1c6246ea6?sa=X&ved=2ahUKEwiAqcK03Nv2AhXFDd4KHfMNBKkQ_BJ6BAgnEAU
◆広隆寺
前述の秦河勝が建立した、秦氏の氏寺であると言われており、
創建当初は弥勒菩薩を本尊としていましたが、
平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、
薬師信仰と共に聖徳太子信仰を中心とする寺院になりました。
敷地内にある「新霊宝殿」では、有名な「木造弥勒菩薩半跏像」をはじめ、
数多くの国宝を見ることができます。
※写真撮影は禁止の為、内部の写真はありません。
「新霊宝殿」の開館時間は、3月~11月は 9時~17時、
12月~2月は 9時~16時30分、
料金は大人 800円、高校生 500円、小・中学生 400円
ただ、僕の目当てはこれだけではありません。
◆隠れた史蹟「いさら井」
広隆寺の観光客用の駐車場になっている場所の脇にある細い道を入っていくと、今は使われなくなった古い井戸があります。
昔は「伊佐羅井」とか「伊佐良井」と記述されていたそうです。
“いさら”とは“少ない”という古語であり、
“いさら井”とは“水の量が少ない井戸”という意味だと言われていますが、
一方で、“いさら井”は“イスラエル”がなまったものという、
ロマンのあるというか、いささか壮大すぎる説もあったりします。
◆木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居
"蚕ノ社"こと、木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社は、平安遷都より前からこの地にあった古い神社で、
一説ではこの地で栄えた秦氏が広隆寺と共に創建したとも、
あるいは秦氏入植以前にこの地にあったものとも言われています。
古くから祈雨の神として信仰され、
(ちなみに見学当日は、晴れなのに雨が降っていました。)
"蚕ノ社"と呼ばれるようになった由来は、境内に蚕をまつる「養蚕神社」があるためと言われています。
本殿西には三つの鳥居を正三角形に組み合わせた形の、三柱鳥居が建てられています。
現在は柵などで囲われているため近づくことはできませんが、
以前は三方向から拝めるようになっていたそうです。
この鳥居も、景教(ネストリウス派キリスト教)の遺物、という説があり、
また、3柱の鳥居がそれぞれ秦氏ゆかりの松尾大社・伏見稲荷大社・双ヶ岡に向いており、秦氏と関連性が高いのではないかとも言われています。
このように京都の太秦には、秦氏ゆかりの場所がいくつもあります。
◆秦氏と日猶同祖論
様々な足跡を残しながら、謎の多い秦氏ですが、
彼らは景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰する、ユダヤ人であったとする説が有名で、日猶同祖論とも関連付けられることが多いです。
日猶同祖論については、明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(別名ノーマン・マクラウド)が最初に唱えたとされていますが、
彼は、日本の神道の中に日本人がイスラエルの民の末裔である証拠(神社建築の類似性・八咫鏡に刻まれた文字など)を発見したと主張しました。
その後、日本の学者によってさまざまな“ユダヤとの接点”とされるものが見つかり、例えば青森県戸来村にある【キリストの墓】や石川県押水町にある【モーゼの墓】、更には安倍晴明の【五芒星】までかなりの数にのぼります。
ちなみに「平安京」をヘブライ語に直すと、エル・シャローム(平安の都)となり、古代イスラエルの都エルサレムと同じになるそうです。
勿論、外見的にも、遺伝子学上においても、現在のユダヤ人と日本人の共通点はありません。
ただ、彼ら日猶同祖論論者が主張しているのは、
日本人は古代イスラエルの失われた10支族の一部の末裔ではないかという説で、現在のユダヤ人の定義である、ユダヤ教の信者(宗教集団)またはユダヤ教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者のことではないという主張なのです。
◆信じるも信じないも・・・
この説は学会で正式に認められたものではなく、世間一般的にはトンデモ論として知られていますが、もしこの説が正しかったとすると・・・
そういった視点で、京都の町を巡ってみるのも面白いかもしれませんね。
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