局外中立~支配とは①
局外中立とは、戦争をしている国同士、もしくは内戦中の勢力のどちらにも味方せず、公平な態度をとるという、国際法上の立場の事です。
近代日本史上では、明治維新において、欧米列国が旧幕府軍、新政府軍をともに交戦団体とみなし、内乱終結まで武器援助などをしない不関与の態度を宣言したことを指します。
この措置は、イギリス公使ハリー・パークスが主唱したもので、この結果旧幕府軍は、アメリカから購入する手はずとなっていた甲鉄鑑ストーン・ウォールを入手できなくなり、新政府軍にとっては有利な状態になりました。
ところが、最新の研究結果により、その後も欧米列国の一部は日本への影響力を強める為、抜け道を見つけて干渉していたことがわかっています。
◆イギリスは新政府、フランスは旧幕府側を支援
当時、イギリスは内政不干渉を謳いながら、新政府側を支援していました。
一方で、駐日フランス公使のレオン・ロッシュは、鳥羽伏見での敗北後、旧幕府側に徹底抗戦を提案しながらも、これからの信頼関係の為にと借金の返済を求めます。
露骨な干渉と借金の取り立てに失望した旧幕府側は、皮肉にもイギリス公使のパークスに助け舟を出される形で崩壊。
1868年(慶応4年)にロッシュは帰国します。
前述の通り、欧米列国は表向きは局外中立の立場を取りますが、
その後もフランス以外で旧幕府側を支援していた国がいた事がわかっています。
◆列藩同盟を支援したプロイセン
鳥羽伏見の敗戦後、降伏勧告には応じていなかった会津藩と庄内藩が同盟を組み、さらに陸奥、出羽、越後の諸藩がそれに加わり、奥羽越列藩同盟を結成。
彼らはプロイセン王国(現在のドイツ)出身の商人、ヘンリーとエドワードのスネル兄弟から最新の兵器を購入するなど、軍備の拡張を進めました。
その貿易の拠点となったのが新潟港でした。
以前から日本海側の開港地として選ばれていた新潟港は、1868年(慶応4年)3月9日の開港が予定されていたものの、期限を過ぎた5月18日に、戊辰戦争の勃発などを理由に、新政府よって開港延期が通知されました。
ところが欧米列国のうち、イタリア、プロイセンなどは新潟から自国に向けての貿易を開始しました。
列藩同盟にとって、新潟港は重要な軍事拠点であり、局外中立によって表向きは諸外国の干渉は無いように見えましたが、特にプロイセンは商人を使って彼らを支援していた可能性が高いです。
◆蝦夷地を担保に軍資金を得ようとしていた?
さらに会津と庄内両藩からは、プロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントを通じ、底をついた軍資金を借りる見返りとして、蝦夷地(現在の北海道)を99年間貸し出すことを当時のプロイセン宰相ビスマルクに提案していたという記録も残っています。
※諸外国との緊張が再び高まった1855年(安政2年)に幕府が蝦夷地を天領とした際、会津と庄内を含む東北諸藩に蝦夷地の沿岸警備義務を割り当てていました。
プロイセン側は一度は断ったものの、このまま日本の混迷が続いた場合、領土確保を考慮するべきではないかと意見もあったそうです。
つまり、戊辰戦争が長引けば、北海道がプロイセン王国の支配下になる可能性もあったのです。
その後、会津と庄内藩はその後新政府軍に降伏し、その計画はとん挫します。
しかし、蝦夷地(北海道)を狙っていた可能性があるのは、プロイセンだけではなかったのです。
◆帝政露西亜の南下政策
列藩同盟の敗色が濃くなった後、榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力が箱館(現在の函館)などの拠点を占領し、北海道地域に事実上の政権を成立させました。(榎本政権、もしくは蝦夷共和国)
そのころイギリス公使パークスは、帝政露西亜の南下政策を懸念していました。
露西亜としては軍事戦略上、不凍港の獲得が国家的な宿願の一つとなっており、万が一露西亜が蝦夷の榎本政権と結びつき、後ろ盾となった場合、最悪蝦夷地が露西亜の影響化に置かれる危険性がありました。
その為、パークスは方針転換を決断します。
◆局外中立の解除
欧州列国の領事が集まった会合で、パークスは、新政府軍がほぼ勝利を確実とし、国内の他の交戦団体がほぼ消滅した事により、内戦状態は終息したと主張し、それに同意した欧州列国が条約による内戦への局外中立を解除、その結果、幕府軍が購入するはずだった甲鉄鑑ストーン・ウォールは新政府軍のものとして、箱館での戦いに参加します。
海軍力の要となるはずだった開陽丸を既に失っていた榎本政権にとってはこれは大打撃となりました。
1869年(明治2年)、土方歳三らが戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏。
戊辰戦争は終結しました。
◆他国を支配する手段は軍事力だけではない
結局のところ、鳥羽伏見から始まった戊辰戦争というのは表向きは日本国内の内戦でしたが、裏側を見れば欧州列国の思惑に振り回された戦いでした。
直接軍事力を行使して国や土地を奪うよりは、国内の混乱に乗じて、自国の影響化に置く方がはるかに効率が良いのです。
そして、それは近代よりもさらに昔、戦国時代の日本でも起きていた可能性があるのです。
次回はそれについて語りたいと思います。