文披31題:Day24 朝凪
~鳥ノ征ク日~
目が覚めたとき、わかった。その時が来たのだと、覚悟していた瞬間が訪れたのだと。
静寂だけが世界を満たしていた。吐息ひとつさえ誰かに聞きとがめられてしまいそうな、静謐な時間が流れている。
「準備、しなきゃ」
はたと思いだし、起き上がる。かすれた声でつぶやいてベッドから起き上がると寝間着を脱いで、白いワンピースに着替えて、顔の下半分を覆うレースをつける。肩より下まで伸びた髪はくくり、布で覆って長いリボンで留めた。髪の代わりに、背中で二本のリボンが揺れている。
窓を開けると風が吹き込んでくる。清涼な風。今日という日に相応しい。
「おはよう」
外に向かい声をかけると、ぴるる、と高い鳴き声とともに小さな鳥が飛び込んできた。鳥は、くるりと天井で廻ると肩に止まり、頬に頭をこすりつけてくる。
指先で小さな頭を撫でながら、部屋の扉を開けて進む。鳥が歌うようにさえずる。
常ならばたくさんの鳥たちが空を飛び、朝を言祝ぐように鳴いているのに、いま耳に届くのは肩に止まる鳥の声だけだ。
海辺にある小さな教会の、その隣。居住区と呼ばれる場所を迷いなく進んでいく。目指す場所はひとつだった。
目当ての部屋の前で立ち止まると鳥もさえずるのをやめ、また沈黙だけが辺りを支配する。目覚めたときよりもひどく重い静寂が、扉の前から迫ってくるようだ。
「……入ります」
決意の一言、そして合図。ノックは緊張を表わすかのごとく固く響いた。
扉に鍵はなく、ノブを握って引くとなんの抵抗もなく部屋の内側へ招き入れられるように開いた。
「おはよう、父さん」
声をかける。返事はない。目に力を込めて、崩れ落ちないように一歩ずつを踏みしめながら室内を進む。
寝室の前でもう一度だけ立ち止まり、大きく深呼吸をする。ゆっくりと足を踏み出し、まっすぐに室内を見据えて。
覚悟はしていたが、目の前に広がった光景にはやはり足は止まり、限界まで目を見開いて。そして涙がこぼれた。
「……父さん」
父が眠っているはずのベッドの上には、鳥がいた。アオサギと呼ばれる鳥が、こちらを見つめている。けして言葉を交わすことはできないはずの異種族の瞳が、何かを訴えるように視線を外さない。
ひとつうなずく。アオサギが翼を広げた。自分を簡単に包み込めてしまいそうなほどに大きな翼は、ゆっくりと開き、そして閉じられる。
「うん、わかってる。私が次代。継ぐよ、父さんの仕事を。鳥の魔法使いは、この海を見守るのが仕事だものね」
アオサギが瞬く。次に目を開いたとき、優しいまなざしがこちらをもう一度だけ見て。
そして、飛び立った。
鳥の魔法使いは鳥と心を交わし、鳥とともに生きる。この教会を守る役目を持つ鳥の魔法使いたちは、代々鳥とともに生きると同時に、海を見守る役目を負う。
そして、命尽きるとき海を渡る鳥となる。
そろそろだと父に告げられたのは数ヶ月前のことだった。そして、予見した日はまさに父が言ったとおりだった。
『私が鳥になって海を渡る日は、静かな凪の日になるだろう』
「父さん、ほんとうにそうだったね」
室内を振り返り、声をかける。
「あなたはどうする?」
ベッドの影に隠れていた瑠璃色の鳥が、シーツの上で美しい声で鳴いた。鳥の魔法使いの番となっていた鳥は、番である魔法使いが役目を終えた時、同じように鳥としての生に戻るか、次代の魔法使いの元に残るかを選ぶ。
魔法使いの元に残るのは半分ほどだ。それぞれの相性や魔法使いと鳥たちの考え方次第で、誰もそれに口出しはできないし、しないことが暗黙のルールだ。
美しい声で鳴いている瑠璃色の鳥の返事を待っていたが、正直なところ、このこは出て行くだろうと思っていた。番である父と、たいそう仲の良かった鳥だ。役目を終えた鳥の魔法使いは掟の通り海を守る鳥となる。そばにいたいと思うなら、外へ飛んでいくしかない。
しかし、瑠璃色の鳥は動かなかった。ただ、歌うように美しい声で鳴き続けている。さらに言えば、その鳴き声はだんだん、大きくなっているような気がする。番の小鳥が翼を開いて風を起こし、くちばしで控えめに頬をつつかれて気づいた。
もしかして、呼ばれている? おずおずと尋ねた。
「もしかして、残ってくれるの?」
甲高い歌声が響いた。怒っているのだとわかった。なまじ美しい鳴き声なものだから、迫力はすごいが可愛らしさもひときわだ。
おやまぁ、とつぶやくと、肩に止まっていた己の番の鳥がぱさりと音を立てて飛んだ。瑠璃色の鳥のそばにいき、話しかけるように鳴いた。瑠璃色の鳥が答えて鳴き返す。
番の小鳥は叱られているようだ。おそらく『あんたの番、にぶすぎ!』といったところだろうか。番の鳥はこくこくと低い位置で頭を下げている。『面目ない』とでも応えているといったところだろうか。
番の小鳥が叱られ続けているのも忍びないので慌ててベッドのそばまで走り寄り、手を差し出した。番の小鳥は先ほどと同じように肩に飛び乗って、ぴる、と鳴いた。
「いたっ」
瑠璃色の小鳥はと言うと、差し伸べた指にかみつき、頭に飛び乗った。人間で言えば『フン!』とでも言いたいのか、高い声でもう一度鳴いた。
父が飛び立った窓まで歩き、外を眺める。
アオサギが悠々と海の上を飛んでいる。そして、姿を見せていなかった鳥たちが、迎え入れるように飛びながら集まってくる。
アオサギは挨拶するように一度低く飛び、くるりと円を描いてまた高く飛び上がる。他の鳥たちの群れに交ざり、やがてどれが父のアオサギなのかはわからなくなった。
「お疲れ様でした」
窓の向こうの海は、まだ波一つなく、ただただ静かだった。遠くで鳥の声が遠く低く、響いて消えた。