文披31題:Day26 深夜二時
ー密事の会合ー
暗い室内で、紙をめくる音だけが響いている。とっぷりと暮れた夜の中で、小さな灯りひとつをデスクに置いて、その人は熱心に一冊の書物に目を落としていた。
数行読んで、一度止まる。指でなぞり、何かを確かめるように何度か行き来して、そして一度宙を眺めてまた書物に目を落とす。
かと思えば読んでいるのだかわからないスピードでページを繰り、急にぴたりと止まる。
何かを探しているようで、けれどどこか目当てのページまでたどるように、読み進めている。儀式めいた動きは不規則で読めないが、当の本人はわかっている様子で迷う素振りはない。
銀にも見える白い髪、溶ける蜂蜜のように濃い金色の瞳の彼は、魔法研究家でこの研究室の担当者であり責任者だ。
昼間は助手と研究員がいてにぎやかな室内は夜になると静かだ。いつもは、以前は助手、今はいち研究員として働く花の魔法使いが同じように研究を進めている頃だが、さすがに今日は限界だと自己申告もあり、見た目もボロボロだったので帰らせた。
ひと段落しているので、どうせなら少し休暇をとってもいいよと伝えたら何かすごいものでも見たような顔をしていたが、なんだったんだろう。彼女はいつも突拍子もないことを言いだすからわからない。
助手からすれば上司である彼こそ突拍子もない奇人変人に言われたくないでしょうよと突っ込でいるだろうが、今はいないのでそれもない。
ふ、と小さく笑って書物に目を戻す。声も出さず、踊り出すこともない。こんなに静かに研究を進める彼の姿を、助手は知らない。
おそらく、こんな姿を目にしたら言葉を失うか、「いつもそうやって仕事してくださいよ、そしたらもう少し気が楽にこっちも仕事ができますよ」などと小言が飛んできそうだ。
想像はするが、改めるつもりはない。昼間のあの行動も、今も、どちらも自分だ。ただ、少しばかり人目があるときは心が沸き立つことが多いというのは否めないが。
「こんな時間まで、熱心ですね、先生」
「……ノックくらいしたらどうだね」
「おや、これは失礼」
顔も上げずに指摘すると、悪びれもせず入った方の側の扉を数回こぶしで打ち、「これでいいだろうか」とでも言いたげに、入室してきた人物は肩をすくめた。
気取った仕草だなとは思ったが、口にはしなかった。言うとますます喜ぶタイプだと知っているからだ。
気にせず書物に目を通していると、軽い靴音を立てて近づいてくる気配がする。話がしたいのだなとわかってはいたが、抵抗を試みる。
「……近い」
「気づかれていないかと思いましてな」
はっはっは、と楽し気に笑いながら、応接用に設置していたソファに、勧められもしないのに勝手にかけた。マイペースが過ぎる。
「お忙しい学長殿は、勤務する人間の状況まで把握しようと熱心なことで」
「いやいやいや、素晴らしい研究を行っている先生に比べれば、こんな見回りなどささいなもので」
「そうかい、じゃあその研究の邪魔にならないよう、早く出て行ってくれないものかと思っているワシの考えることもわかってくれているかと思うがの」
「はっはっは、そう言いつつも相手にしてくださる気じゃないですか」
「話を聞かないと、帰るつもりもないくせに、この性悪」
「誉め言葉と受け取りましょう」
笑みを絶やさず、ああいえばこう言う。こういう類の人間の方が面倒だというのに、わからないのか助手よと常々小言を言ってくる助手に向かって心の中で悪態をつく。
相手をしてやらないと帰らないとわかっているので、作り置きの茶をグラスに注いで出してやる。冷気の魔法のかかった保存箱に入れておいたので、まだ冷たい。
礼を言って受け取った学長も気づいたようで、ほう、と感心したような声をあげた。
「これはまた良いものですな。広場のミスト発生装置もそうですが、先生の研究はほんとうに素晴らしい。便利でありがたいものばかりを独自の理論で形にしてくださって」
「それがワシの研究理念じゃからの」
自分もグラスに茶を注いで、学長の向かいにかける。口をつけると程よい冷たさの茶が心地よく喉を滑り落ちていった。助手は最近、ますます茶を淹れるのがうまくなっている。花の魔法使いの指導のおかげだろうか。
それで?と茶を楽しんでいる学長に尋ねた。仮にもアカデミーの最高責任者が、こんな夜更けにわざわざ訪ねてくる必要はない。
なんらかの理由があるから、こうして魔法研究家がひとりになる時間を狙って訪れた。つまり、二人きりでないと話せないことを話すために来ているのだ。
「話が早いですな。と言ってもいつも通りの話ですがね。あの研究を見る限り、だいぶ進んでおられるようで」
柔らかい印象を与えるこげ茶色の瞳が、鋭さと強さを内包して魔法研究家を見つめている。彼は自分の目的を知っていて、そして協力してくれている数少ない人間たちのひとりだ。
ふむ、と魔法研究家は顎に手を添えた。己の研究成果を思い浮かべる。
「察しの通り、だいぶ進んでおるな。魔法線の可視化、魔法の効果の強化薬および装置の開発、魔法金の開発と魔法の定着、使用の検証も成功。そして物体と魔法式の埋め込み及び安定と流動化、半自動化も終わった」
指折り数えて言い連ねると、学長の口からため息が漏れる。
「言っておられましたが、この数年という短期間でほんとうに……よくぞそこまで推し進めましたなぁ。いやはや、すごいの一言ですね」
褒められて喜ぶでもなく、魔法研究家は眉を上げ、唇を少し歪めて黙っている。これが助手たちの前であれば、胸を張って「すごいだろう、褒めよ、称えよ!」などと言いながら小躍りするくらいだが、この男の前でそうするつもりはなかった。
魔法研究家は両手を組み、額に押し当ててしばらく沈黙した。学長の誉め言葉は、賛美でありながら驚きと労いと、失望を含んだ実感のこもったものだった。
「やはり、あなたの理論は現実のものになるのですな」
「ああ、それは間違いない。緩やかにではあるが。確実にそのときはやってくる」
「そうですか」
学長は己の手を見つめ、何度か閉じたり開いたりする。魔法研究家は魔法が使えないが、その仕草は魔法を使う者がよくしているものだと知っている。
みな、魔法の話をするとき、なぜか手のひらを見つめるのだ。己の中のものを確認するかのように。そして、魔法を使うときは基本的にその手のひらをかざすことによって発動させる。
「『神の恩恵』の魔法は抽出できているのですかな」
「ああ、雨の魔法使いが現在いるのはありがたいな。ワシの研究と、今後の対策にたいへん役立たせてもらっておる」
定期的に雨の魔法使いである少女に魔力の雫を提供してもらっていることは、学長も周知のことだ。むしろ『神の恩恵』と神殿に認定される魔力を集めるのに彼の承認がなくては話にならない。
魔法研究家が向けた視線の先に、一抱えほどのボウルが置いてあり、透明な魔力の雫がためられている。時が経つにつれ自然と結晶化していくため、数週間経ったそれは水滴のような形の結晶と化していた。
「あなたの研究によると、魔法は徐々に消えていく。当たり前にあるものが、いつの間にかなくなっていく、そうでしたな」
「そうだ。間違いなく、魔法は消える。数百年先のことになるだろうが、徐々に力は薄くなっていくだろう。現に『神の恩恵』の魔法使いが現れても、伝承ほどの魔法は使えない」
断言し、先ほどまで目を通していた書物を開く。『神の恩恵』と称される魔法使いの行った魔法が、対応した事件や災害などにどのような力を発揮したかが記されているものだ。
学長は眉を寄せて、口を開いた。まるで神に願いを唱えるように。
「それは止められないのでしょうか。あなたの力でもっても」
「ワシにはその力はないよ。もとは神の息吹の加護によるもの。時が経てば、血が継がれていけば、薄れていくのは必定」
そもそもワシは魔法が使えんしの、と苦笑を見せると、学長が痛ましい顔をする。
「それはあなたが」
「ワシは魔法を愛して研究しているただの研究者じゃ。そして魔法が失われることを発見した。その後の対応を研究するのは当然じゃて。なにせ、魔法が使えん者の気持ちが一番よくわかるでな」
「……はい」
「じゃから、魔法が使えんようになる時に、その代わりになるものを今からたくさん研究しておく。誰かにわかってもらおうとも思わんし、魔法が消えると知らんでも良い。奇人変人呼ばわり大いに結構。それもワシじゃもの。ただ、そんなワシのところにいてくれる同輩や助手はとてもありがたいよ」
魔法研究家はグラスを手に取り、もうひとくち茶を含む。花の魔法使いである研究員と霧の魔法使いの助手のことを口にした顔は、穏やかで慈しみ深い。
「あの二人をここに寄こしてくれたことには感謝しておる。研究もはかどるし、話がわかる。そしてなにより、二人とも心がとても清い」
だから大丈夫じゃ、と魔法研究家が続ける。心配しすぎるなと言われた学長は無言で頭を下げた。
そうして二人は黙り、長くも短くも思える時間が流れた。
沈黙を破ったのはぽーん、と控えめになった時を報せる鐘の音だ。この装置も、魔法研究家のお手製だ。
「夜の二時じゃな。そろそろ切り上げて寝ることにしよう。学長殿も夜が明けたらまた忙しくなろう。今日はこれでしまいじゃ」
柔らかな声音は有無を言わさぬもので、追い出すようにして学長を帰し、魔法研究家は広げていたものを片付けようと実験道具を手に取る。
「魔法は美しく、強く、芸術にも等しいもの。万物にあふれる力に働きかける魔の力。だからこそ、過ぎたるものかもしれんの」
フラスコの中で揺れる花を眺め、ふ、と息を吐く。咲き誇っていた花のひとつが、花びらの最後の一枚を落とした。
その様子は、いつか訪れると口にした終わりを示すかのようだった。