【思索】えーあいせいせいとのおつきあい(推奨者ではありません)
大手の某アルファベットのSNSが、規約を変えるとのことで11/15が「エックスデー」となり、いろいろと変わったそうです。
まんまエックスデーでウケるwww草生えるwww
と笑って流したいところだったのですが、そういうわけでもないというのが現状。
画像は全て、えーあいに学習されるらしい。
文字も、学習されるらしい(会話を収集?)。
それは大変!と創作者さんたちがあちこち別のSNSに引っ越しを始めたのが通知が出た10月下旬。それからエックスデーが訪れているというわけです。
正直、ほんとに困ってます。当方、いちおう一次創作者ですのでアカウントも一次創作関係のものだし、つながりもその界隈の方が多く。
その方々があちこちのSNSに散らばってしまわれるのは、創作をおいかけたい私としては、時間も手も手段も大変!!!となるわけです。
……アカウントを作ったりしなきゃいけないですしね……個人的にはク〇スフォリオさんがいちばん苦労して、アカウント作ったけどそっと放置しております……
めんどくさいんじゃー!なんだけど、めちゃくちゃ便利に甘えてたんだな、と実感することになったエックスデーとなりました。
みなさまのことを追いかけていきたいのは心の底から、なので動向を頑張ってアンテナ広げて捕獲していく(?)所存です。
という、私のSNSとのお付き合い方法はさておき。
今日の本題は、「A I 生 成(以降はAとします)」について、改めて考えてみたこと、です。
Aは、学習させたもの(画像、文章)の中からコマンドにそったものを生成するというもの、という認識を持っているのですが、それ自体は悪いものではないんだろうなとは思うところです。
具体例がいくつか思い浮かんだので、順に羅列しながら話を進めていこうと思うのですが、とりあえず「A=悪」ではない、という大前提。
というのも、Aの行い自体はプログラミングに過ぎない、という感覚であるからです。
それこそ、このnote記事だって、あらかじめ決められた(=学習させた)テンプレートの中に、決められたフォントなどで入力し、表示させる。画像もそう、引用もそう、見出しなどもそう。
あらかじめインプット、学習させた機能を使ってアウトプットする土台を作っているに過ぎない。
フォントのお話になりましたが、そもフォントって創作、芸術ですよね。
書道で優れた技能を持つ方を「三筆」と言います。空海・嵯峨天皇・橘逸勢のお三方がそれにあたります。さらに時代によってそれぞれの三筆がいらっしゃるとか。
また、平安時代は手蹟の美しさが魅力の一つであったとされています。
では、その美しい字を読み込ませて紙に任意の字を記すことは可能なのかという問いかけをした場合、返るのは「是」という言葉でしょう。
だって、その美しい字はフォントとして学習させられるのですから。
それをインプットさせてアウトプットすることは、Aと何の違いがあるのだろう、と思うところなのです。
他の例として浮かんだのは、最近のレトルト食品の品質と味の向上。
もともとは「店で食べてこそ」と、レシピを漏らすこともレトルトなどでの提供なども絶対にさせないとしてきた三つ星ホテルのシェフなどが、現代では「〇〇シェフ監修! 本店の味!」なんて、ほぼお店の味と感じてしまうようなレトルト食品が普通にお店に並んでいます。
まったく同じ、という例にはならないのですが、同じものを作ろうとすることができる、はAの行いとも似ているのではないかなと。
このレトルト食品で重なった部分は、取り込んだ作品と同じ筆致でAは作品(画像)を作り上げることができるのでは、という類似性の問題。
この部分において、「人間が描いたのかわからない」のと「本物のシェフが作ったかわからない(流通させるんだから無理)」という点が一致して考えられるかなと。
そうすると、基本的にAは今の時代において当然に現れうるものであり、時代の中では求められているものなのではないか、ということにいったん落ち着いてしまうことになります。
なにせ、人は時間をかけずに欲しいものを手に入れるために知恵をこらし、努力を惜しまない、そして楽にしていくのが得意だから。
そうなると、Aはいよいよ本領発揮の時が来た、ということなんだろうなと。
ここで改めて言っておきたいことは、私は「A I 生 成」の肯定者、推奨者ではありません。そういう機能があるんだな、開発されたんだなと言う事実は受け入れていますが、それを全肯定して使うことには否定派です。
私も文字書きの一次創作者のはしくれです。
私の作品を学習されて私の作品っぽく作られて世の中に出されるなんて、面白くないじゃないとも思うところは当然あります。
そう、一番言いたいのは「何が面白いの」です。
しかし、それに関しては一つ答えが出ているんですよね。
面白さを求めているのではなく、楽して、お金をかけず、創作物を得たい
(この主張については、今回の思索が創作を中心にしているからということでお願いします)
これが第一であると私は思っています。SNSであげられた、ダウンロードしてもお金をとられない画像や文章を拾って学習させて、欲しいものを得られるんならいいですよね。
しかも、学習させてくれてあるツールがあるならなおさら楽ちん。
そりゃあ、上記の主張を持っている方にはかなり便利なツールでしょう。
でも、思うのは、「そこに愛はあるんか?(某CM)」です。
創作物への愛、創作したことへの達成感。作られるものにはどれにも芸術性が宿ると、私は考えています。
広大なネットの海にたゆたう小さな小瓶にも満たないような、取るに足らないつたない私の創作にだって、想いやプライドやいろんなものを詰め込んでいます。
創作することは、時間がかかります。作りたいものを思い浮かべて、自分なりに表現を考えて、アウトプットすることに時間をかけて、その間にもいろんな葛藤やジレンマとも闘って。
その葛藤やジレンマは、スポーツマンや職人、政治家にもあると思います。ここにあげきれない、誰にだってあると思います。
それをあざ笑われるのは、ただ道具のように利用されるのは、誰しも怒りを覚えるのではないでしょうか。
Aで作ったものを「自分で作った!」とは言わないで欲しいな……作ったのはあなたじゃないから……とは言いたい。
今回のAの件で怒っていらっしゃる方は、その込めた想いとかいろんなものをうわべの見える部分だけすくって材料にされてこねられて「新しい作品を作りました!」と言われることに対してじゃないかと。
それにつきるのかなと私は感じています。
主語、大きくしちゃった……
フォントのことやレトルト食品の件でもめごとが起こっていないのは、きちんとルールを決めあっていて、そのルールを守ると同時にフォント作成者やレシピの考案者が守られているからではないでしょうか。
そして、なにより「オリジナル性が担保されていること」が必要なのでは無いかと思います。
どんなものでもそうですが、オリジナルには勝てない、が一番です。
写真だって、レンズに映るものをただ写したという点だけ見ると、実際に目にする景色にはかなわない部分はあります。
もちろん、写真にも芸術性があります。美しさや素晴らしさを表現しているのですから。その写真家だって、オリジナリティを出して撮影されているはずです。
その人が醸し出す個性には、勝てない、と強く言いたいです。
美しいと評されている人の文字が印刷できるからと言って、その字を書く本人の価値が下がるのか?
否。
シェフの本格的な味が再現されたレトルト食品があったとして、シェフがいる店に食べに行かなくなるのか?
否。
そう、やはりオリジナルにはオリジナルの良さがあるのです。素晴らしさがあるのです。
ただ、そうすると「Aだって所詮生成物なんだからオリジナルには勝てないでしょ?」と言われるかもしれません。
それはそうだと、思います。でも現状においては、前述の「オリジナル性の担保」がされていないというのが問題だと思うのです。
そういった個性、オリジナリティを守られていないままに「勝手に利用される」ことに、怒りと不安を覚えているからこそ、今回の某SNSにおいてのエックスデーになったのかなと思っています。
「全部取り込むよ」、な上に「勝手に利用しても文句言わないでね」とした上で、「人様の著作物は使っちゃダメ」の言葉だけ見ると誰の何を守っているのかわからない、という不安になるなぁと。
某SNSについては確かにサービス提供者のお話になるので、規約に掲げたんならユーザーとしては従うか従わないか、しかないのでそれは個々で考えるとして。
その上でのサービス提供側の説明になるんでしょうし、撤退するというのもひとつの選択肢になるんだろうなと。
Aそのものについては、すでにいろんな方がお話ししていると思いますが、改めて今後の付き合い方を考えていかなきゃいけないんだなと実感したのでした。
恣意性がないからこそ、使い手の意思ひとつ。画面の向こうにいるのは人であることを忘れず、いろんなことに向き合っていきたいものです。
私は少なくとも、今後もAで作られたものは創作物と言いたくない、と思っております(見出し画像も、そうではないものを使用させていただいていると思っております)
(でも。そもそも、検索エンジンも最初は全然機能してなかったけど人がたくさん検索して、情報がエンジンに登録されていっていつの間にか断片的な単語で欲しい情報が手に入るようになってるんだから、結局そういうもんなんだろうなとも思わなくも、なかったり……難しい)