第二四節 もうひとつの大阪ダービー(後編)
むかしむかし、あるところに青と黒の姿をした鬼がいました。この鬼。自分は弱いくせに自分よりも弱い村の者をいじめたりして暮らしていました。
怒りが限界に達していた村人たちは、この悪い鬼を退治してくれる誰かを探していました。ひとりの者は遠くまで探しに行ったり、また別の者は山に登って神様にお願いをしたりしていました。
そんなある日。
村にひとりの若者がやってきました。若者は桃色の鎧を身にまとっており、その背中には満開の桜の花びらが描かれていました。
しかし、村人が気になったのはそこではありませんでした。なんと、この若者のお尻からはふさふさの尻尾が伸びているではありませんか。
若者に対しなにか神秘さを感じた村人たちは、若者に向かって口々に言いました。あの青と黒の鬼を退治してほしい、と。
若者はなにも言わずにうなずき、村の女からもらった桜餅を携え、たったひとりで鬼退治へと旅立っていきました。
目が覚めた。
ぼくは夢を見ていた。
なんとなく日本昔ばなしで見たことがあるような内容に、なんだかほっこりした自分がいる。しかしながらそれほど悠長な時間を過ごしている場合ではなかった。
布団から飛び出し、わんこの散歩からはじまる朝のルーティンをぼくは順にこなしていく。勝負服にあえてスーツを選んだ(さすがに桃色の鎧は持っていなかった)。
正直なところ、今日という日になにが起こるのかさえまったく想像ができない。ワクワク感などと表現できる要素はひと欠片も存在していなかった。
テーブルの上には昨夜書き終えた嘆願書がある。ぼくは手に取り、今一度読み返してみた。
いいのだろうか。これを持ってあの場所に行くのが正解なのか。自分のなかでもう何度も議論し尽くしているじゃないか。いまさらぼくはなにを迷っているのだ。
気がついたらぼくは地下鉄浅草線のホームに立っていた。今朝の夢のせいだろうか。なんだか物語のなかにいるような感覚が続いている。
そうこうしているうちにJR御茶ノ水駅から歩いて五分ほどの日本サッカー協会に到着した。生まれて初めて来た。もっと楽しい気分でここを訪れたかった。ぼくは素直にそう思った。
複雑にからまりあった思いを断ち切る。受付カウンターへと真っ直ぐに向かった。
「ぼくはセレッソ大阪のサポーターのひとりです。実は折り入って日本サッカー協会の会長に話したいことがあります。お呼びいただいてもよろしいですか。よろしくお願いします」
二人で横並びに座っている受付の女性に向かって、ぼくは丁寧な口調で声をかけた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
右側の女性が返してきた。ぼくは緑色のサッカーショップ蹴球堂の名刺を手渡しながら名前を告げた。
矢継ぎ早に左側の女性から、どういったご用件でしょうか、という問いが飛んできた。まるで演劇のセリフのように感じた。思わず笑ってしまいそうになったけど、ぼくはなんとかこらえて返答した。
「大阪でおこなわれる予定のスルガ銀行チャンピオンシップの件で話がしたいと思いまして、今日、こうやってここまで来たのです」
顔こそ笑ってはいるものの、受付の二人は心の底から警戒している。それが手に取るようにわかる。すぐさま右側の女性が電話の受話器を左手で握り電話機のボタンを押すしぐさをした。オフィスに内線でもかけたのだろう。
受付担当のその表情 ― 恐怖に滲んではいなかったようには思えるけどそれなりのフェイスを見せていた ― を敏感に察知したのか、警備員らしき人物が虎視眈々とぼくの足元を狙っていた。
ぼくは、大柄な男性の歩く姿を横目に収めながら、ルックアップして建物内をあまねく見渡した(どんなときでもさりげない仕草を見せられるのがぼくの能力なのかもしれない)。
とてつもなく長く感じた。ぼくが保持するボールを警備員がかっさらおうとした瞬間、右側の女性はそっと受話器を置きながらぼくに向かって話しかけた。
「あいにく会長は外出しております。代わりの者を呼びましたのでまもなく到着すると思います」
会長不在を告げられて少しがっかりしたぼくは、そうですか、とだけ答えた。腰をかけて待てとの指示を忠実に守るために、窓際に置かれている四人がけの椅子に座った。
ひと安心したのだろうか。危機一髪のところでぼくの攻撃を食い止めた大柄の警備員は、ひと仕事やり終えたかのように元のポジションへと戻っていった。
席に座り、ぼくは勝負スーツの胸元から嘆願書を取り出した。
改めて目を通してみる。まだ思い悩んでいる。本当にこれでいいのだろうか。引き返すのなら今しかない。
ぼくの雑念に構うことなく、濃紺のスーツに緑のネクタイ姿をした男性が近づいてきた。ひと回りくらい年齢が上だろうか。ぼくは嘆願書を元の三つ折りに戻し、再びスーツの内ポケットに戻した。
こういう場面では大人の立ちふるまいが重要だ。社交辞令よろしく名刺交換をおこなう。名刺の肩書きには課長代理と書かれている。協会の序列としてはどれくらいの地位なのだろうか。
促されて席に座るや否や嘆願書を引っ張り出す。折り目の直しもほどほどに、ぼくは二枚のA―四用紙を課長代理に手渡した。表彰状でも受け取るかのように課長代理は両手をそっと添えて受け取った。この所作を見るだけでも信頼に値する人物だと一瞬でわかる。
何分ほど経っただろうか。ひととおり読み終えたであろう課長代理が口を開いた。
「これはもう決定事項であって変更することはできないんです」
思ったとおりの反応。想定内だった。
もちろん課長代理とて、そのひとことだけを持ってして目の前の男が引き下がるとも思っていないだろう。顔には歴戦の跡がしっかりと刻み込まれている。多分、この人も勇者なんだろうな、とぼくは胸中でつぶやいた。
だいたい、一介のサポーターが訪ねてきたくらいで階下に降りてくるわけだ。それだけですでに英雄だ。
尊敬の念を抱きつつもぼくは拳を固く握る。それでも自身の主張をするのみ。なぜなら今日のぼくも同じ勇者だ。青黒の鬼を退治するためにやってきた勇者なのだ。
「決定事項…そんな言葉で引き下がることはできません。長居スタジアムはぼくらセレッソ大阪のホーム…聖地なんですよ。そもそもガンバ大阪にも長居スタジアムを使う理由がない。彼らだってきっとそう思っているはずです。彼らには彼らのホームスタジアムがある。それが使えないのはじつに口惜しいと思っていますよ、絶対に」
人を、組織をだしに使うのはアンフェアだとは思いつつ、頭を整理しないまま、原色のままの言葉をぼくは発した。思いつく限りのシュートを課長代理に向けて放ち続ける。どこからどう見ても日本語としての体裁を保てていない。端的に言うなら子供の口喧嘩にも似たありさまだった。
課長代理の返答は一貫して変わらなかった。これまでと変わらず、メディアに流れている言葉を口にした。
「双方のクラブからもすでにオッケーをもらっています。繰り返しますがこれは決定事項です。なんとか納得してもらえないでしょうか」
「それを聞いたから来たんですよ、ここに。ぼくらサポーターのことをなにも考えてくれていないんですよ、この結果は。J2だからですか?J2だからこんな仕打ちをうけることになるんでしょうか?スタジアムはクラブの持ち物じゃないのかもしれないけど、クラブにはクラブのスタジアムに対する思いがあるんですよ。ぼくらセレッソ大阪サポーターの気持ちはどうなるんですか?どう考えてくれますか?」
理性よりも感情が先に出てしまいそうな気持ちをグッと抑えながら、ぼくはまくし立てた。
自分本位で話しをしているのも自覚している。課長代理はじっとぼくの目をまっすぐに見て話を聞いていた。話のわかる人なのだろうな。ぼくの直感がそう言っている。一緒に仕事をしたら楽しいはずだ。だとしても今日のぼくには降りる理由が存在しなかった。
納得してほしい、納得できない、の堂々巡りがしばらく続いた。全身に疲れの色が見えはじめる。目の奥に疲労ではないなにかを感じる。ぼくは何度か瞬きを繰り返した。
その瞬間、ふと、あのクラブスタッフの顔が瞼の裏でちらついた。なぜ、映えある第一回大会でこのような状況になったのか。どうして、万博記念競技場が利用できなかったのか。クラブスタッフから事情も聞いていた。
南米サッカー連盟と日本サッカー協会双方での取り決めがすでに合意事項として存在していた。四万人以上を収容できるスタジアムが必要だったけれど、この時点でガンバ大阪は保有していない。話は単純。ただそれだけのことだった。
それだけのために長居スタジアムでガンバ大阪の公式戦ホームゲームがおこなわれるという屈辱が、目の前で起ころうとしていた。納得できるわけがない。納得は絶対にしない。そう思っていた。
多くの人を巻き込んだ合意に対し、ぼくには打てる手がなかった。もう一度目を瞑った。「俺だってくやしいよ」寂しそうにそう語るクラブスタッフの姿が浮かんで、やがて消えた。
ぼくが目を開くと同時に、課長代理は言った。
「今一度のお願いです。納得してください。これは決定事項なんです。今後は出場クラブのホームスタジアムで試合がおこなえるように尽力していきます。だから、お願いします」
ジ・エンド。
二〇〇〇年五月二七日。二〇〇五年十二月三日。あのときの選手たちと同じように、ピッチでうずくまる自分がいた。所詮、ひとりでなにかを成し遂げられるようなものではなかった。自分の弱さを嘆き、ぼくは力なく立ち上がった。
受付の脇を通って玄関まで向かう。課長代理が自動ドアのところで見送ってくれようとしていたけどぼくは丁重に断った。受付の女性や警備員にも見えるように、ぼくは頭を深く下げるお辞儀をした。
そう。彼らは仕事をした。最後の最後までゴールを守りきった。何本ものシュートを放ったにもかかわらず、ぼくは得点ひとつも奪えなかった。ただそれだけのことだった。
フォワードはゴールを決めてこそ評価される。だとしたら…。一体、ぼくはなんなのだ。なにが残っているというのだ。ぼくの感情は体から離れ、東京特有のビル風に紛れていく。やがて目の前からも消え去っていった。
サッカー通りを御茶ノ水駅へと歩いた。駅前の橋に差し掛かる。そのときズボンのポケットのなかで携帯電話が鳴った。取り出そうとして危うく川に落としそうになる。
なんとか手にしたピンク色の折りたたみ式携帯電話の液晶画面をぼくは眺めた。あのクラブスタッフの電話番号だった。
『サッカー協会まで行ったんだって?今しがた、課長代理から電話があったよ。怒るのはわかる。ぼくも一緒だ。でも、あんまり無茶はするなよな』
語気は強かったけれど、電話の向こう側でクラブスタッフは笑っているように感じた。釣られてぼくも大声で笑った。
電話線(厳密には空中を飛ぶ電波なのだけど)というたった一本のメタル線のなかで、しばらくのあいだぼくらは無言だった。言葉は要らなかった。今、ここを生き、泣き、笑う。それだけで幸せな気持ちになれた。サッカーライフとは、セレッソライフとはなんて素晴らしいのだろう。
試合は負けた。でも、ぼくらは永遠の勝者だと胸を張って言える。
オフィスレディだろうか。若い女性が怪訝そうな顔をしてぼくのすぐ横を通り過ぎていく。吹っ切れて、なにかを手に入れたぼくにとっては、そんなことなどお構いなしだった。
電話のマークの赤いボタンを押す。またひとりになった。それでもぼくはあいかわらず笑い続けていた。いまさらだけど、やっぱり人と感性が違っているらしい(この試合をきっかけにして、四万人規模が収容できるサッカー専用スタジアムの建設方針をガンバ大阪は示した。ぼくの鬼退治は、ある意味においては大阪ダービーの活性化につながったとも言えるのだろう。知らんけど)。