プロローグ 長居にて
天地がひっくり返ったとしてもこれだけは言える。
サッカーは九〇分プラスアディショナルタイムという決められた時間の中で戦い続けるスポーツであるのだと。
たとえ延長戦やペナルティキックに突入したとしても、与えられる刹那というものはいつの時代も有限であるのだと。
有り余っているわけでもないのに、なけなしの小遣いを使いチケットを買ってスタジアムへと集い、この二時間弱というとてつもなく長くてあまりにも短い物語を、ぼくは飽きるくらい何度も過ごしてきたのだと。
そして、セレッソ大阪サポーターとしての人生。ぼくがいつもそう呼んでいる「セレッソライフ」ってものには終わりなんて存在しないのだと。
それにしてもセレッソライフとはなんて残酷なのだろうか。
ひとたびクラブを愛してしまったならどれだけ裏切られたとしても一生涯連れ添う覚悟を持たされてしまうのだから。
いや、違う。
持たされるのではない。人生の大半においてみずから望んで命を差し出すがごとくクラブに捧げる、という言いかたのほうが、より相応しいのかもしれない。
残酷と表現するならこの試合もそうだ。
アディショナルタイムにゴールを奪われるというセレッソ大阪の伝統芸を披露した(しかも今回はオウンゴールというおまけつきだ)。
勝ち点二だけではなく「iPhoneを探す」でもなかなか見つけられないくらいの大きな落とし物をしてしまうこのクラブ。昔からちっとも変わっていない。
失ったものはじつに大きいのだけれど、自分の持っている弱さともどこか重なってしまって(その都度感じてしまうのだけど年が変わるとこの気持ちはどこかへと消えさってしまう)憎いなんて感情はもう、ぼくの脳内ストレージ容量の九〇%をゆうに越えて、毎回のように警告を受ける始末。
でも同じくらいの幸福感をセレッソ大阪が幾度となく与えてくれたのも紛れもない事実だ。
わずか六分で天使と悪魔の両者から祝福を受けた湘南ベルマーレ戦を見ながら、この生命の続く限りセレッソ大阪に恩返しをしなければならないという気持ちの高まりをぼくは感じていた。
この思いはきっと、ともに死の淵に立つその日まですべてを受け止めながら生きていくのだろうな。そしりを受けながらも強く前に進んでいくのだろうな。まるで上り坂と下り坂を交互に歩んでいくように。川が上流から下流へと導かれるように。
なぜならセレッソライフという淀みが、ゆるゆるとウダウダとぼくの心の中でこれからも流れ続けていくのだから。
そんな思いと同様に、目の前にはセレッソ大阪の歴史を背負って一進一退の攻防を繰り広げた選手たちが胸に誇りを抱いてピッチ上に立っている。
ぼくにだってなにかができるはずだ。
自分自身のサポーター・アイデンティティを育ててくれた愛するこのクラブになにがしかのお返しをしようじゃないか。与えられる側から与える側になってもいいじゃないか。強烈な西日が差し込むスタジアムのバックスタンドでぼくはそう思った。
昨日、また懲りずにまとめ買いをしてしまった大量の無印良品の文庫本ノート。そのうちの一冊をバッグから取りだした。
黄土色した表紙をめくる。
そうしてぼくは無地のキャンバスに力強くペンを走らせはじめた。
『今からでも遅くはない。さあ、キックオフだ。』