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第四章 第二一節 ウロボロスの輪

 ヤンマーディーゼルサッカー部からセレッソ大阪と名称が変わり、Jリーグを目指してからはや一〇年が経った。ひと昔とはよく言ったもので、ぼくも、周りの仲間たちも、随分と人生が変わったものだ。
 そりゃそうだ。一〇歳だった少年は成人を迎え、不惑の年にセレッソ大阪が誕生したというおじさんたちは、いよいよセカンドステージへと突入していく。クラブを愛し続けているだけでも奇跡なのに、今もまだ長居スタジアムで同じ時間を過ごせる関係がそこにはある。それがなにより嬉しい。
 しかしながら肝心のセレッソ大阪といったら降格候補なんていう嫌なレッテルを貼られていた。俗にいう弱小クラブに成り下がってしまっている。
 それもあってか、ぼくらセレッソ大阪サポーターの怒りは沸点を通り越してすでに蒸気と化している。とにかく苛立ちの募ることばかりが我が身に降りかかった。
 確かに、二度目のJ1昇格を果たした二〇〇三年のファーストステージでは五位と躍進した。
 それはそれで両手を挙げて喜ぶ反面、出入りの激しすぎるゲームなんてあった日にはぼくのはらわたが煮え繰り返る思いだ。両チーム合計のゴール数を見るとさらに心が萎えていき、半ば自暴自棄になった(だって二一世紀だというのに六対四なんて試合が存在するのだから。テレビゲーム以外でこのような試合がこの世にまだまだ存在しているとは)。
 二〇〇二年以降、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナを支援し続けているとはいえ、一年の間に監督がクロアチア人からボスニア・ヘルツェゴビナ人、そしてまたクロアチア人と変化し続ける二〇〇四年のカメレオン人事は、類まれなるぼくの想像力ですら容易には追いつけない状況だった。
 難解な数学の問題を出題された学生のようにぼくの頭はとめどなく混乱をきたした。
 何がどうなったら立て続けにこんな出来事ばかりが起こるのだろうか。お世話になりっぱなしだったあの社長が退任してからというもの、不可解極まりないシーズンをセレッソ大阪は送り続けた。 
 しばらくのあいだは目の奥に焼き付いて離れないであろう、心臓が止まりかけた大久保嘉人のペナルティキックでかろうじてJ1残留を決めたセレッソ大阪は、新潟での最終戦を経て綺麗サッパリ東欧路線を捨てた。

 プチ暗黒時代と評されるここ数年、ぼくはある野望を抱えていた。
 セレッソ大阪には一八歳以下や一五歳以下といういわゆるアカデミー組織がある。アカデミーを支援するための後援会も辛うじてクラブに存在していた。
 セレッソ大阪を愛するひとりの人間として、これからのクラブとの関わりのひとつとして、少し前からこのアカデミー後援会に参加しようと考えてはじめていた。
 懇意にしているスタッフにその話を持ちかけると「ああ、あれね。あれは駄目だよ」とまたたく間に一刀両断された。
「今、新たなアカデミー支援のプログラムを考えているから。サポーターも含めてセレッソ大阪を本当に愛している人たちで支えるかたちを、ね。だからちょっと待ってて」
「え?そうなの?それは素晴らしい話やないですか。待ってますわ」
 そうは言ったものの太平洋のど真ん中で置き去りにされた気分。ゴムボートの上には食べるものも飲むものもない。どんよりと浮かんでいるぼくの気持ちは漂うことすらままならず、いまにも暗礁に乗り上げそうな感じになっていった。
 この先でどんな貢献ができるのだろうか。陸地を見つけるために叱咤激励する毎日だった。気づけばセレッソ大阪がなにかを与えてくれることばかり期待してしまっている。先行きの不透明さだけは低迷するクラブと同じじゃないか。そんな自分に吐き気すら覚えた。
 ひょんなことからとあるデザイナーと出会った。誰もが一度は体験したことのあるシューティングゲームの開発者。知る人ぞ知るこのデザイナーといつどのように意気投合したのか。数日前のことなのに思い出せない。ぼくの記憶は海の藻屑と消えたようだ。
 無理を承知で、セレッソ大阪サポーターのキャラクター作りなんてものを無謀にもぼくはお願いした(とは言っても我がクラブとはまったく縁もゆかりもないデザイナー氏だ。ただ単にぼくという存在に興味を持ってもらえただけなのだろう)。
 その昔、あるセレッソ大阪サポーターの御方にエンブレム制作をお願いしたことがある。何を隠そうそれが”一一人の戦士を支える一二番めの狼”。
 巨大な狼がセレッソ大阪イレブンを下から支えるという構図のやつ。スタジアムでも貼り出されているし、今では至るところで二次利用されているのがこのエンブレムである。
 小学生の頃には漫画家志望だったくせに、なにせぼくには絵心がない。そんな不束者の思い描くイメージをその御方は想像どおりに創りあげてくれた(実はスタジアムで何度も喧嘩をした相手だった。それでも「エンブレムを作りたい」と言ったら真っ先に手を挙げてくれたのだ。尊敬と感謝をいくらしてもしたりないくらいの御方だ)。
 で、肝心のキャラクターなのである。
 ぼくの脳内イメージである、狼、悪ガキ、格好いい、をゲームクリエイター兼デザイナーはものの見事に体現してくれた。
 少し右に顔を向けてペロッと舌を出すこの愛すべきキャラクターはきっと、ここから世界へと羽ばたいていくはずだ。そう思わせるに値する最高の表情をしていた(誰に聞いても、サポーターのキャラクターなんてものを考える発想がわからない、と口を揃える。自分でもなぜこんなことを思い立ったのか、まったく予兆すらなかった。これが「偶発性 ― セレンディピティ」なのだろうか、やっぱり。とは言ってみたものの最終版までに五回のバージョンアップ。お互いにそれなりの紆余曲折があったのもわかる)。

 二〇〇五年シーズンのセレッソ大阪は再び日本人監督のもとスタートを切った。サポーターなんて負け続ければ減る。逆に勝ち続けると増えていく。資本主義と一緒だ。増えて増えて膨張し続けるとある日外皮が耐えきれなくなり、やがて破滅を迎える。
 何度同じことを繰り返しているのかとも思ってしまう。それでもサポーターという生き方を辞められない。これはもう、中毒だな。それ以外には考えつかなかった(Jリーグ昇格から一〇年も経っているわけだ。ぼくの性格からすると飽きが来ていないほうがおかしいということになる)。
 二シーズン制が終焉し一シーズン制へと移行された二〇〇五年にセレッソ大阪は何となく優勝争いを演じた。次々と目の前に積まれていく仕事によって、全身を覆うセレッソライフという皮膚という皮膚は、フルシーズンを戦える水分すら枯渇していた。
 さらに言えばB型・しし座なのである。
 それでも、三三試合目まではなんとか集中力を保ち続けてきていた。心身の持続力は徐々に失われつつあった。
 最後の試合で、ぼくは九〇分ジャストまでしか走り続けられなかった(厳密にいうと三四試合目が終わるほんの数分前までは集中力があった。だけどそれ以外の能力はすべて使い果たしてしまっていた)。
 案の定、ウロボロスの輪のように、セレッソ大阪は尻尾から自分自身を呑み込んだ。歴史は繰り返されたわけだ(森島寛晃の途中交代によってその後のぼくの神経回路は一瞬にして停止した。そのあとの心と体の状態は想像にお任せする)。
 誰が悪いわけでもないのになにかに当たらずにはいられない感情が込みあげる。外国人プレーヤーは最高だったし日本人選手も揃っていた。ここ数年を考えれば比べ物にならないくらいサッカーの質も高くなっていた。
 それでも、なにが原因かもわからないけど、二〇〇〇年のあの熱量には遠く及ばない気がした(「なんで今年だけ二シーズン制じゃないんや」と論点のすり替えさえ起こる始末。人間とは、何とも自分勝手で、そして愚かな生き物なのだろう)。

 昨年末の傷もようやく癒え、日本代表が初めて出場したフランス大会から三度目のワールドカップが近づいていた。数カ月後に迫るドイツへの旅を夢想していたぼくにアミーゴがポツリと言った。
「長居駅周辺でセレッソ大阪サポーターが集まるアンテナショップをやるなんて案はどうやろうか」
 アカデミー後援会もペンディングになったままだ。合わせるかのように近々東京へ移ることになるかもしれないと周囲に仄めかしていた。だからこんな話題が出てくるのも当然といえば当然だった。
「お店か。それはええかもしれんな」ぼくは言った。
 アミーゴはすでにいくつかの物件に目星をつけていた。フライドチキン屋の上か。雑居ビルの二階か。家賃はかなりの開きがある。ともに造りは古いけれど我孫子筋沿いのアクセスは悪くない。アミーゴのいつもの手際の早さにぼくは脱帽した。
 愛するクラブとの絆が切れるわけではない。それでも、大阪に、長居にぼくがいたという確かな存在証明。アミーゴがアイデンティティの結晶を残したいと話していることを人伝てに聞いて、ぼくは人目も憚らず泣いた。
 だから場所なんてどこでもよかった。アミーゴのために、セレッソ大阪サポーターのためになにかができるのなら、正直なところどんな形でも異論はなかった。
 構想すらまとまらないまま店舗契約をした。さあここからどうしていこうか、なんて妄想と夢を膨らませていく。セレッソ大阪と一緒に成長する姿が頭のなかに浮かんだ。
 悩んだ末に優柔不断なぼくは《サッカーショップ蹴球堂》という名を手帳に書き込んだ。
 少年習字五段の達筆な文字。二〇〇〇年の長居の悲劇、五月二七日がオープン日であることは最初から決まっている。それ以外は行き先不明、あのときと同じゴムボートひとつの長旅。無謀ともいえる冒険のはじまりだった。

 粛々と準備をおこなって無事ぼくらはお客様を迎えることができた。サポーター向けのオリジナルグッズに加えて、あのスタッフのおかげでセレッソ大阪オフィシャルグッズも陳列棚に置かせてもらえるようになった。
 仄暗い雑居ビルの二階という立地条件。JFL時代からセレッソ大阪を応援しているサポーターや初めて試合を見に来た若いカップルが続々と訪れてくれた。
 楽しそうに笑うお客様の顔を見て、ぼくは心からこの現実に感謝した。聖地・長居スタジアムのそばには掴みきれないほどの幸せが溢れている。
 いつもセレッソ大阪とつながれる場所。いつでもアイテムを買える場所。仕事を終えた仲間同士、どんなときでもセレッソ大阪を感じられる場所。それが多くのサポーターの願いであるし、それこそ、遥か昔からぼくが思い描いてきたホームタウンの理想形だ。
 走り出したらもう止まることはできない。今日という日は、この先でもう一度やってくるなんてことは絶対にないのだ。
 それでも人は愚行を繰り返す(優勝争いをした翌年は降格争いに巻き込まれるお決まりの)。ぼくをはじめ、クラブもサポーターもなにひとつ成長していないってことだけはわかっていた。
 昔はよかったなんて言葉は口が裂けても言いたくはない。前だけを向いて歩きたいけど、少しずつ毒がこの身を蝕んでいた。
 ウロボロス。愚行という名の尻尾。そりゃ、いとも簡単に延々と続く下りエスカレーターに乗ってしまうわけだ。やがてその毒は全身を駆け巡っていき、間違いなく事故が起きる。
 エスカレーターでは歩いてはいけない。じっと我慢する必要がぼくにはあった。まるでペンローズの階段。ループ状のトリックアート。直視するべき現実がそこには存在している。まさにウロボロスの輪。
 どうやらぼくはぼく自身を食い尽くそうとしているようだ。やがて大阪最後の一年が終わった。

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