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第二節 ファーストシュート

 オリジナル一〇。Jリーグ発足時に名を連ねたクラブはそれだけでレジェンドとしての風格が漂っている。先行者優位とはよく言ったものだ。
 だけど名門ヤンマーディーゼルサッカー部にはその差を埋めることのできるポテンシャルがあるとぼくは思っている ― 我ながら安易で安直な考えだけど。
 オリジナル一〇の一員が大阪には存在している、なんてものは関係ない。大阪市民のためのプロサッカークラブという響きは、ぼくのような大阪市の民草にとって心を躍らすワードだった。住み慣れたオラが街からJリーグを目指すクラブというだけでもはやエクスタシーなのだ。

 職場へ向かうバスに乗った(大阪市大正区は日本有数のバスの街である。日本で初めてバス専用レーンが生まれたのも大正区なのだそうだ。知らんけどの世界だけど)。空いている後部座席に腰をおろし、戦闘服である濃紺のスーツの内ポケットから紙片を取り出す。
 小さい紙切れとなった新聞記事を改めて読みはじめた。コンパクトになってしまったこの新聞の切れ端が、なんだかとてつもなく大きな出来事に変わっていくはずだとぼくは思った。縦揺れの激しい車内でぼくは妄想を止められずにいる。選手や監督はどうなるのだろうか。そしてサポーターという存在は…。
 そう思った瞬間、どこからか急に「それはあなた次第じゃないですか?」という声が聞こえた。そう。ぼくの心のリトルはもう気づいていたのだ。声援をまとめる人物が誰なのかを。
 さらに激しくバスが波打つ。その振動に合わせてぼくは船を漕ぎはじめた(三〇分以上バスに乗るので言ってみれば毎日がちょっとしたアウェイだ)。応援する自分自身の姿が頭に浮かぶ。
 途端に赤信号でバスが急停車した。首が軽く振られ、ぼくは目を開いた。数センチほど開いた車窓から飛び込んでくる生暖かい空気がぼくの頬に当たる。無性に気持ちよかった。

 職場に着いてもろくに仕事が手につかなかった。父親の「お前、なんもせんで、それでええんか?」がまるで壁パスのように脳みその同じところを行ったり来たりしている。
 なにかの病にでもかかっているのかもしれない。一般的な知恵熱だったら徐々に下がっていくものだろう。だけど持って生まれる常軌を逸した赤桃色の血液が今にも毛穴から吹き出しそうだった(当時はこのB型特有のブラッドもまだまだ赤寄りのピンクだった)。
「これは、行くしかないな」心の声が漏れた。先輩が隣の席から変な顔をしてこちらを見てくる。大丈夫かとも聞かれていないのに、ぼくはなぜか「問題ないです」と答えてしまった(変人の習性とはじつに恐ろしい)。
 先輩は呆れ顔で、まるでアルゼンチンサポーターのように手の平をひらひらとさせながらどこかへと去っていった。
 もはや妄想を止める手立てはなかった。なにかを行動していないと自分自身の思考がおかしな方向へ傾いていってしまう。吉田松陰ならきっとこのタイミングで発したのだろうな「諸君、狂いたまえ」と(御存知のとおりサッカーと同じくらい幕末の歴史が大好物だ)。狂乱の世へ向かう若者の魂が乗り移ったかのようにぼくの心は高ぶっていた。
 ぼくは決断した。こうなると、たとえ身体を掴まれようとも止まることはない。後方からの悪質なタックルであろうともぼくを止められないのだ。
 昼休みに堂島にあるインディアンカレーで甘口のハヤシライスを食べながら、ぼくは妄想の一部始終をアミーゴに話した。
「今日、ヤンマーの事務所に行かん?」
「ええな。面白そう」
 簡単に話はまとまった。これでぼくらはもう京に旅立つ草莽の志士だ。志なんて、いつの時代もこんな感じで人に伝わっていくのだろう。
 窮屈で退屈な仕事を終わらせるや否や、ぼくらは一目散に目的の場所へと向かった。もちろんそれは茶屋町だ。

 ヤンマーディーゼルサッカー部プロ化推進室は阪急梅田駅の真ん前にある。ヤンマー本社ビルの裏手。特にこの辺りは迷路と呼ぶに相応しい。
 道路が複雑に交差を繰り返しており一見さんにとっては難攻不落の街だ。そういうぼくも、果たして無事辿り着けるのだろうか、という思いでいっぱいいっぱいになっている。
 不夜城をさまようこと数分。やがて目的地らしき場所に着いた。意外とスムーズに来ることができて安堵した。建物自体が本当に質素な佇まいをしている。上空から見たら間違いなく歪な三角形をしているはずだ。
 職場を出る前にある程度は調べておいたはずなのに、実際に到着してみると、本当にここでいいのか?、と正直悩んでしまう。
 まさにダークサイドへの入り口。魔境とも呼べる茶屋町の片隅。妄想と現実が色分けされていない、意識と無意識の狭間に潜んでいるかのような空間だ。まるで、ジ・アンダーテイカーの魔術によって不思議な心理状態へと誘われている感覚にぼくは囚われていた。
 気がついたら古風なドアが目の前にあった。なぜだか入り口の横には不気味な壺が置かれている。生気のすべてを吸い取られてしまうかもしれないとぼくは思った。
 気を確かに持つこと。それがこの暗黒世界では重要だ。ここまできたのだ。リングに立たないまま控室へは引き返せるはずがない。たとえ相手がデッドマンであったとしても。
 ええいままよ。
 ノックもそこそこに、ぼくは地獄の一本道を切り開くように取っ手を強く握った。ほんのり温かい。人為的ではないとすぐにわかった。だけど電流爆破では少なくともなさそうだ。
 一瞬、目の前が真っ暗になった。何なんだこの感覚は、と声にしたぼくの両耳の裏側がざわつく。絶頂を迎える直前のあの感覚。エクスタシーなのだろうか。それとも緊張のあまり気が動転しているのか。
 どフリーでボールを待つあの瞬間にも通ずる。いや、どちらかといえば、この扉の先に待つ暗黒卿と対峙するルーク・スカイウォーカーのような心持ちだった。
 貧弱すぎるライトサーベルを片手に、躊躇せず奥へと押し開く。ぼくはダークサイドの内側へとその身を飛び込ませた。フォースとともにあらんことを。

「どちらさまでしょうか。ここは事務所とかではないんですが、ご用件はなん…」
 ヤンマーディーゼルサッカー部プロ化推進室のスタッフなのだろう。この若い(とは言ってもぼくと同じくらいのはずではあるけど)男性の話を遮るようにぼくは第一声を唐突に発した。
「ヤンマーが大阪市に作る新しいサッカークラブをサポートしたいと思ってます。クラブのサポーターとして生きていくために今日ここに来ました」
 男性スタッフの狼狽ぶりが手に取るようにわかる。クラブのサポーターとして生きていくと宣ったこの人物はいったい誰なのだ。不信感ありありのふたつの目がぼくとアミーゴを交互に睨んでいる。すると好戦的な視線を逸らさない男性スタッフの背後から声が聞こえた。
「わかりました。話を聞きましょう。こちらにおかけください」
 見るからに格が違うオーラが声の主から醸し出されている。多分凄い人なのだとぼくは直感した。蛇に睨まれた蛙とはこのことか。促されるまま右側に置かれた応接椅子に座った。

「うちのクラブを応援したいとか聞こえました。本当にありがとうございます。単刀直入に聞きますがどのようなことをお考えですか?」
 目の前にあるついさっき貰ったばかりの名刺に目をやる。実質この組織のトップなのだろうか。優しい口ぶりとは対照的に芯の強さがひしひしと伝わってくる。ぼくは心の中で正座を崩さないまま自分の考えを話しはじめた。
 しかしながら目の前にいる相手は反論どころか相づちすらしない。若手レスラーの技をすべてを受け止めるアントニオ猪木のような威風堂々とした佇まいだった。
 ときおり手帳になにか書いている様子でもある。だけどぼくの眼力では解読することが不可能だった。それよりも問題は、振りかぶった弓引きストレートともいうべき強烈な「眼力」だった。
 どうしようもない二三歳の若者 ― 馬鹿者 ― と思われているだろうな。だけど迷うことなんてない。とにかく相手が誰だろうと臆せずプレゼンテーションを続けることにぼくは集中した。会話のキャッチボール、ナックルパートの応酬にはほど遠かった。熱量以外になにもないただの若気の至りだった。
 今日はこれでいいかなんていう計算高さすら、今のぼくは持ち合わせていなかった。プロレス同様に気持ちと気持ちをぶつけあうのみ。ぼくは全集中し、そして全うした。

 小宇宙(コスモ)をすべて燃やした。気持ちは出し切った。今も両腋から汗がしたたって落ちている。でもレッドデビルはここにはいないのだ。呼吸を整えながらぼくはアミーゴを見た。額にうっすらと汗が浮かんでいる。ふたりとも極度の緊張状態だった。
 手持ちのカードをすべてオープンにしてフィニッシュホールドを待ち受ける新人レスラーの気分。さあどうだとばかりに、ぼくは目の前にどっしりと座る人物をじっと見つめた。
 吉と出るか凶と出るか。鬼が出るか蛇が出るか。出たとこ勝負のヒリヒリする時間がゆったりと流れていく。かたときも視線を外すまい。さあ、最後の延髄斬りを撃ってこい。ぼくがそう思った瞬間だった。
「ありがとうございます。事情は理解しました。ただ…わたしたちのクラブもまだまだこれからなんです。でもあなたたちの熱い気持ちは素直に嬉しい。本当にいい話を聴かせてもらいました。改めてですがありがとうございます」
 最後に繰り出された大技は、想像を遥かに超えてきた。なんだか少しこそばゆい気もする。大半の大阪市民が関心をまったく持っていないんじゃないか、そんな不安が逆に生まれてしまった。
 それでも、ぼくという人間に多少の興味を持ってもらえたのではないか。その気持ちだけで充分な成果を得た気がした。

 生まれたときから大阪人には、芸人としてのDNAが体内に組み込まれている。どんな負け試合であっても「今日のところはこれくらいにしといたろか」と最後の最後まで芸人魂を見せるものだ。今のぼくがまさにそうだ。
 デビュー戦を終えて緊張の糸が解けていく。最後にかけられた「また連絡します」という言葉以外、ぼくの耳にはまったく入ってこなかった。
 今や完全にぬるま湯と化した緑色の液体に軽く口をつける。安物の茶葉っぽい苦味が喉の奥を駆け巡った。一気に飲み干し、そそくさと三角形の雑居ビルをあとにした。

 バットを振らなければボールに当たることはない。シュートを打たなければゴールに吸い込まれることなど皆無だ。有史以来、それはいつの時代でも同じである。
 今日、ぼくは左足を振り抜いてみせた。綺麗なキックではなかった。スミを狙う見事な放物線でもなかった。だけど未来に向けての大いなるファーストシュートを、ぼくは放ったのだ。
 人間臭く、泥臭い。でも、確実にゴールの枠をボールは捉えていた。

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