サポーター・アイデンティティ
線路に沿って道なりに歩くと正面にヨドコウ桜スタジアムのメインスタンドが見えてきた。日本全国どのスタジアムでもこの瞬間がたまらない。最高級の興奮をぼくに与えてくれる。
でも、スタジアムに入るのはまだ早い。
売り出されると同時に多くのセレッソ大阪サポーターが買いに走ったという伝説の白いマンションを左に折れ、やがて一軒のカフェレストランに行き着く。
建物の二階フロア。そこが目的の地。旅の終着点だ。
二〇二〇年四月三〇日。新型コロナウイルスが猛威を振るう厳しい局面のなか、アミーゴと力を併せコミュニティスペース兼書店を立ち上げた。それがF.C.OITO(エフシーオイト)だ。
FOOTBALL(Family、Osaka、Oito、Theatre、Book、Art、Live、Life)び八個の頭文字と八つのカルチャー。どうもぼくは「八」の呪縛から逃れられない性分らしい。
文化と文化の融合によって鶴ケ丘の街にFOOTBALLを根づかせていく。ぼくだけではなく、その思いは多くのセレッソ大阪サポーターの悲願でもある。
オンラインで店舗作りやオープン準備のサポートはおこなってきた。だけど店内に入るのは今回が初めてなのだ。普段とはまた違う緊張をぼくは隠すことすらできなかった。
茶屋町のヤンマーディーゼルサッカー部プロ化推進室にも似た小さいドアの前に立つ。あのときと違って扉はすでに開いていた。
三〇年という時間によって開放されたのだろうか。心を落ち着かせるよう大きく深呼吸をした。自分のやってきたことや生きてきた道は、なにひとつとして間違っていなかったのだとぼくは安心した。
降りることを想像すると足がすくんでしまう急な階段を足早に登る。Lサイズのフラッグで造形された暖簾を右腕で押し、ぼくは未体験のゾーンへと足を踏み入れた。
想像を絶する風景がここにはあった。
大好きな本の粉っぽい匂いと窓の外に広がる巨大なスタジアムの風景。
目にはいってくるものすべてがじつにゆったりとしている。セレッソ大阪サポーターはもちろんだけど、たとえ無関係であってもこの光景を見ればきっと胸が躍るだろう。
高画質で何度も見たはずなのに。百聞は一見にしかずとはまさにこういうことだとぼくは思うほかなかった。
ルネッサンスを彷彿とさせる幾何学模様の天井。
規則性を感じつつも無造作な内装。
壁という壁を埋め尽くす多数の本とサッカーショップ蹴球堂のアイテムたち。すべてに魂が宿っている。このプレイスを発見した人間は真の天才だ。
テーブル席にはアミーゴの変わらない笑顔があった。しばらく会っていないにもかかわらず、軽口を叩きあうという単純なコミュニケーションはすぐに生まれる。近くもなく遠くもない距離感がぼくはたまらなく好きだ。
これが家族。これがセレッソファミリア。セレッソ大阪と出会い、多くのアミーゴと出会い、いいこともそうでないことも常に共有してきた大切な宝物だ。「わたしたちは家族です」。ふと初代監督パウロ・エミリオの言葉を思い浮かべた。
ぼくのサポーターライフ。ぼくのセレッソライフ。これ以上の幸福など望めるはずもない。ぼくはなんて幸せ者なのだ。自分にとってもっとも大事なものに改めて気づいた。
サポーターライフやセレッソライフは自分自身がそう生きると決めたときからはじまる。
観戦歴二〇年以上のベテランであろうと、ホーム・アウェイすべての試合をスタジアムで観戦するツワモノサポーターであろうと、今この瞬間にセレッソ大阪を熱くサポートすると決心した人であろうと。ひとりひとりのライフを構成する要素に違いなんてない。
サポーターとして生きる証。サポーター・アイデンティティは、すべからく誰の心のなかにも存在する。そして、それは、誰になにを言われようとも、絶対に立ち止まることなく諦めることもないのだ。
試合開始の時間が迫っていた。さあヨドコウ桜スタジアムに向かおう。挨拶もそこそこにぼくはF.C.OITOを出た。
想像していた以上の下り階段は文字通りの急勾配だった。一瞬でも気を抜くと足を滑らせてしまうのではないか。内心ビクビクしながらぼくは降りていった。
恐怖を乗り越えた末に百済大橋通へと歩み出た。ピンクとネイビーを身にまとっているセレッソ大阪サポーターが続々とスタジアムへ向かって歩いていく。その列に遅れないようにとぼくは足を速めた。
聖地・長居はいつも心を鷲掴みにしてくる。間違いない。素晴らしいサッカー街に成長し続けている。そう言い切っていい。
豊富な交通網に最寄り駅からの絶妙な距離。なにより緑に囲まれた公園のなかにサッカーのできるスタジアムが三つも存在している超快適な空間。ここまで恵まれた環境を持つホームタウンなんて日本全国、いや世界中を探してもそれほどないはずだ。
公園周辺のいたるところにセレッソ大阪を愛する数多くの店舗が立ち並んでいる。地域愛に支えられて大阪市唯一のプロサッカークラブは日々戦っている。
それは彼らにとっても同時に、いつでもセレッソ大阪と同じときを過ごすことができる幸せ者、という称号が与えられているということなのだ。
クラブと、スタジアムと、街と、人のつながり。ぼくが理想として描いてきたホームタウンの姿そのものだった。
一〇〇年後はどうなっているだろうか。世界のあっちこっちからサッカーファンがやってきているだろうか。緑が広がる長居公園は自由と多様性で満ち溢れているのだろうか。
「やっとホームに帰ってきたわ」
怖いくらいのひとりごとがぼくの口から勝手に飛び出した。だけど、どこからか吹いてきた生温かくつむじの曲がった大阪独特の風が、泥臭すぎる言葉を真っ青な空へと飛ばしていった。
気づくと、未来のコールリーダーたちが急ぎ足でぼくの横を次々と通り抜けていく。いつの間にか道路の脇で立ち止まっていたようだ。
近くに誰もいないことをこれ幸いと、コールリーダーが発するような泥臭すぎる言葉を脳内から掘り起こしていった。トンネルから次々と見つかるお宝ワード。ぼくは心のなかで何度も何度も繰り返した。
過去を振り返るなんて自分らしくないな。微妙に色づけされた感情が、言葉と一緒にぼくの全身から漏れ出した。…いい歳してなにしているんだか。立ちすくんだまま、苦笑い以外の選択肢を徐々に失っていった。
試合開始を待つ空気感が長居公園から外へ外へと溢れ出てきている。SAKURA SOCIOの特典チケットを握りしめながら久々に味わうサッカー観戦の熱気をぼくは肌で感じていた。
座席がバックスタンドだとチケットには書いてあった。キンチョウスタジアム時代にはメインスタンドだった場所。ある試合がぼくの頭のなかでフラッシュバックしていた。
雨天の際にキンチョウスタジアムのバックスタンド最前列付近に座ると、大量の雨粒を浴びることになる。二〇一六年の昇格プレーオフ決勝。ファジアーノ岡山戦がその最たる例だ。
でも今日は最後列で、しかも、晴れている。なによりセレッソ大阪のホームゲームをこの両の目で見られるのであれば、座る場所など正直どこだってよかった。それくらいぼくは試合に飢えていた。
ヨドコウ桜スタジアムを右に見ながら歩く。目の前にどしっと構えて動かない壮大な大聖堂のような長居スタジアムが構える。ともに生きてきた戦友のような存在。ぼくの大量の涙を受け止めてくれたカテドラルだ。
改めて見上げる。大きさと偉大さについうっとりしてしまう。この瞬間もI―四ゲートは口を大きく開いて、今のぼくのような存在でも喜んで受け入れてくれたりするのだろうか。
妄想を膨らますなか、ほどなくセレッソバルが見えてきた。ついさっきアミーゴから「絶対、長蛇の列になってるで」と言い放たれてしまったせいで、ぼくはどうしても親方の唐揚げを食べたい気分になっていた。
忠告どおり店の周辺はホームサポーターだけではなくアウェイサポーターも相まって想像を絶するごった返しぶりだった。日本のサッカーシーンではお馴染みの香ばしい匂いをかもし出す黒いブース。誘われるようにぼくは人の波に吸い込まれていった。
最後列に並んでいたらあっという間にぼくの番が回ってきた。胃腸と相談中のぼくには優しくないであろうピンク色の岩塩がたっぷりとかかった唐揚げを一セット買う。
登録したばかりのQR決済で支払いしていると親方が奥から声をかけてきた。コロナ禍もあり久々の対面だった。とは言えウダウダなんてものはいとも簡単に生まれていくのだ。心地よいくらいに。
長居スタジアムの軒下には多種多様なフードが売られていた。どこもかしこも大阪っぽい。個性を混ぜて焼いた特大のお好み焼きのようだ。自分の体を気にしなくていいのなら次から次へと味見をしたくなる。
店員たちの笑顔が輝いている。彼らも彼らでいくつもの無観客試合と向き合ってきたのだろう。そんな経験の末に出店できる喜びに浸っているように見えた。
ごく当たり前にセレッソ大阪の試合があり、ごく当たり前に彼らのフードが並んでいて、ごく当たり前にサポーターたちが食べる。そんな、ごく当たり前な環境は少しずつだけど戻りつつある。
彼らも、コロナ禍で沈んでいる空気を変える要素なのだ。ぼくは感謝の意を示しながら、いつかどこかで嬉しい気持ちを伝えようとぼくは心のなかで誓った。
ついにヨドコウ桜スタジアムの入場口までたどり着いた。試合に向かうぼくの気持ちは相当なレベルにまで高まっている。このときばかりはぼくのことを「エクスタシー大阪」と呼んでいいだろう。
しばらくのあいだ頭をからっぽにして、歌声のない拍手とドンドンドドドンという太鼓音だけの無慈悲なコールアンドレスポンスに聴き入った。
さらに耳を澄ますと、青空の先の先まで突き抜けていくかのような美声を感じた。かれこれ二〇年近くの付き合いになるスタジアムDJだ。心なしかトーンを抑え気味の語りがぼくの両耳の鼓膜で悲しげに震えていた。
気持ちを切り替えられないままぼくは入場ゲートを通過した。SAKURA SOCIO PRIMEカードを係員に提示し、少しだけ優雅な気分を保って優先レーンの階段を登った。すでに一般レーンに対する優位性などないに等しい時間帯なのだけど。
その刹那、大人が発したら確実に怒られるであろう雄叫びが背後に迫ってきた。太鼓のテンポに合わせながら走る、二段飛ばしの子供たちだ。
一般レーンを次々と猛スピードで駆け上がる。やがて優先レーンで呆然とする老体を軽々と追い抜いていった。
とかく世代交代などこんなものだ。コールリーダー同様、上の世代は下の世代のために居場所を空けておく必要があるのだ。古いユズリハの葉は、今また一枚、足元に落ちていったように思えた。
ヨドコウ桜スタジアムバックスタンドの裏。ほの暗い通路を抜けていく。その先にある階段を登って、ようやくぼくは観客席へと足を踏み入れた。
すでに試合ははじまっている。だけどまったくもって関係ない。ピッチを見つめるこの瞬間。それがたまらなく愛おしかった。
「ぼくは今もまだ、ここにいていいんや」
神の祝福にも似た喜びをぼくは素直に受け止めた。
必然だと信じていた日常が帰ってきたわけではない。そしてこれからだって、すべてが元どおりになるなんてこともきっとない。
それでも、だ。
どんな困難が待っているとしても、セレッソ大阪が存在する限りぼくの思いが途切れることは絶対にない。絶対にないのだ。それだけははっきりと言ってしまえる。
人生の時間。二億八〇〇〇万秒という旅路。セレッソ大阪とのぼくの日常は、この命が尽きるそのときまでずっと続いていくのだ。
だから胸を張って言える。あの朝、目覚めたときと同じように。
「セレッソ大阪のないサポーターライフなんて未来永劫存在しない」
相変わらずの強烈な西日のなか、心からそう思える自分のサポーター・アイデンティティを、ぼくは少しだけ誇らしく思った。
完