機材おじさん密室事件
神瀬三蔵(かんぜさんぞう)は絶体絶命の状況にいた。
彼は有名なヴィンテージシンセサイザーコレクターである。
今、彼は自宅の地下に建築したスタジオの中、高価なシンセに囲まれながら呆然と立ち尽くしていた。
その中でも一際目立つのは壁一面を覆い尽くすMueg(ミューグ)のモジュラーシンセサイザーのシステムである。
この価格だけでも1000万円は下らないであろう。
スタジオの出入口は分厚い防音扉で閉じられている。
レコーディングスタジオなどで見かけるような鉄製の頑丈な扉である。
扉についているL字のノブを押し上げることでロックを解除することができるが、どうやら反対側からなんらかの手段でノブが回らないように固定されているようであった。
彼は密室に閉じ込められていた。
三蔵はこの状況に陥るまでのことを思い返す。
朝、いつものように起床し、妻が作ってくれた朝食と食後のコーヒーを飲んだ後、彼はこのスタジオに入った。
三蔵は常にミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを好むが、その日のコーヒーはとくに甘かった記憶がある。これなら元のコーヒーがどれだけ苦かろうと分からないレベルだった。
ともあれ、三蔵がスタジオに入った後、急激な眠気に襲われて彼はスタジオのソファに寄り掛かった。
彼が深い睡眠から覚醒した後、尿意を覚えて一旦スタジオから出ようとしたところ、スタジオの扉が開かなくなっていることに気づいたのだった。
三蔵は一瞬窒息するかと思ったが、スタジオには通気のための管が天井に通っているのでその心配はなかった。
しかし、どうやらその通気管から炭が燃えるような煙たい臭いが漂ってきている。
三蔵はズキリとした頭痛を覚えながら、練炭による一酸化炭素中毒事件のことを思い出した。
今のこれは、同じ状況にあるのではないか?
三蔵は気づいてゾッと身を震わせた。
(このままでは死んでしまう・・・!)
ドン!ドン!
三蔵は防音扉に思いっきり肩から体当たりしたが、扉が壊れる気配はない。
彼はそこまで体格が良い方ではないし、そもそも普通の扉でも体当たりで破壊するのは容易ではない。
三蔵は痛む肩を押さえながら、弱々しく座り込んだ。
(だ、だめだ・・・扉は開かない・・・)
絶望した三蔵は、スタジオ内の音響機材を力なく眺めた。
これだけの機材を集めるために、彼は様々なものを犠牲にしてきた。
激務で体を壊しても、家族からの冷たい視線を浴びせられても、将来のための貯金をほぼ空にしてまでも、彼は理想のスタジオを作り上げることを夢見て邁進してきたのだ。
そうしてようやく手に入れた理想のスタジオなのだった。
涙で歪む視界の中、彼の瞳は大出力のスピーカーを捉えた。
その時、彼の脳内に閃きが訪れた。
(そうだ、スピーカーから爆音を出せば誰か気づいてくれるかもしれない・・・!)
彼はモジュラーシンセサイザーの音声出力をスタジオの最終ミキサーに接続し、ミキサーのゲインを最大にした。
さらにモジュラーの8つのオシレーター全てを最大音量に設定し、爆音でスーパーソウサウンドを鳴らした。
ブワー!!!
少しずつピッチのずれたオシレーターが、大小様々な音のうねりを伴って、存在感のある爆音を生成した。
しかし、皮肉なことに、彼のスタジオの防音は完璧であった。
(だめだ、これでは気づいてもらえない!)
彼は力付きて床に仰向けに倒れ込んだ。
これまでの人生の出来事が走馬灯のように思い出される。
(このまま死ぬんだろうか・・・)
室内にはもうかなり煙たい臭いが充満してきている。
彼は朦朧としながら、なんとなく天井の通気管を眺めていた。
三蔵の意識も、あと10分持つかどうかというところだった。
(あの通気管がもっと大きければ、中を通って外に出られたかもしれない・・・)
その時、彼の脳内に稲妻のような閃きがあった。
(まて、もしかして、あの通気管を共鳴させれば、外まで音が伝わるのでは!?)
共鳴管型スピーカーというものがある。
ざっくり言えば、菅の筒状の構造の中にスピーカーの振動ユニットを入れてしまい、菅の共鳴で大音量を再生するスピーカーのことである。
管には共振周波数があるので、うまく共振する周波数に合わせれば巨大な共鳴音が得られるはずである。
つまり、天井の通気管をスピーカーの共鳴管にしてしまおうという作戦だ。
三蔵はまず、オシレーターのピッチをLFO(低周波数オシレーター)でモジュレーションして広い周波数帯で音が動くようにした。
ギューウンギューウン!
彼はスタジオからギリギリ手で持てそうなサイズのスピーカーを探して手に持ち、脚立に登ってスピーカーの振動版を通気管にぴったりとくっつけた。
ギューオー!ゴゴゴゴ!!!ギュー!
オシレーターのピッチがある特定の周波数まで下がると、通気管自体が激しく振動し、物凄い低音が発生する。
(よし、共振周波数は分かったぞ!)
彼は脚立を降り、スピーカーをその場に置いて、一旦モジュラーシンセサイザーの前に戻った。
そして、オシレータのピッチを通気管の共振周波数と思われるポイントに調整する。
(これで音は外に伝わるはずだが・・・)
ふと、三蔵は不安を覚えた。
(しかし、ただの騒音として思われて無視されるかもしれない・・・)
そこで、彼はモールス信号を使うことを思いつく。
(そうだ、「SOS」の信号パターンを再生すれば・・・)
三蔵はオシレーターの音量をVCA(電圧制御アンプ)でコントロールするようパッチングし、さらにステップシーケンサーでそのVCAの出力音量を制御した。
彼は再度脚立に登ってスピーカーを通気管に押し当てる
ゴンゴンゴン!!!、ゴーゴーゴー!!!、ゴンゴンゴン!!!
(誰か、誰か気づいてくれー!)
彼はしばらくそのままSOSを鳴らし続けていたが、彼の体感では1時間(実際には10分もなかったろう)経っても助けはこなかった。
三蔵は力尽きて脚立から倒れ落ちた。
ガシャーン!
手に持っていたスピーカーが放り投げられて床に衝突した音が聞こえる。
しかし、三蔵はギリギリのところでまだ意識を失っていなかった。
涙で滲む彼の視界は、これまで共に頑張ってきてくれた Mueg のモジュラーシンセサイザーを捕らえる。
(もう、これしか、ない)
三蔵は80kg以上はあろうかという Mueg のモジュラーラックを両手に抱え込んだ。
普段の彼であれば、そんな重量を持ち上げることなどできないが、もうこれは火事場の馬鹿力という奴である。
彼は号泣しながら、防音扉に突進し、モジュラーラックを打ち付けた!
ゴシャーン!!!
ラックが歪み、マウントされていたモジュールがいくつか弾け飛んだが、扉は開かない。
(まだだーーーーー!!!)
彼は再度突進してモジュラーラックを打ち付ける!
ゴシャーン!!!メキメキ!
さらにモジュールが弾け飛び、ラックには回復不能なダメージが入る。
それでも、扉は少し歪んだものの、開くまでには至らなかった。
(もう、だめだ・・・)
そこで彼は力尽きて意識を失った。
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その後、騒音によって通報を受けた警察により、彼は無事救い出されたとのことだった。
彼の妻は殺人未遂の容疑で逮捕され、物欲の虚しさを悟った彼は出家して坊主になったということだ。
実経験から語られる彼の説法はとても評判が良かったとのことである。
本日の怪文書でしたー。