水月_2022/12/11の稽古
1.出来ているかどうかは自分では気づけない
少し、最近noteをサボり気味だったのですが、また再開しようと思います。
ちょっとした報告ですが、白石先生より、教授資格をいただきました。
しばらくしたら、自分の稽古会でも開いてみようと思っています、、、
がしかし、やっぱりまだまだ私もかなり未熟でして、出来たと思っていたことができていなかったり、あるいはできないと思っていたことが、ふとできたり、中々安定感がないのですが、
結局のところ、無元塾における技ができるかどうかは自分ではよくわからないところもあるのです。
自意識ではわからないと言いますか、これは自分の目を自分で見れないのと似ています。相手と言う鏡を通してやっと自分の心の働き(上記の例えでいうところの目)がみえてくるからです。
じつは、12/11の稽古で、興味深いことを言っていた方がいましたので、その方がおっしゃっていたことを紹介します。
その方が言うに、心に水面に映る月を思い浮かべて、その月が崩れないように、心にさざ波が立たないようにすると技がかかるというのです。
実はこれは中心帰納を別の言葉で言い換えたもので、中心帰納そのものなのですが、より意図を捨てる方便として役に立ちます。
俗にいうと「やった感」がない技になります。相手が勝手に崩れたように感じるのですが、その相手が崩れた結果を目指してしまうと、これはうまくいきません。しかし、その技がかけられるときのこちらの心身の状態は、中々自分ではわからないのです。
その意図が想起されるとき、水面に映る水月はさざ波で崩れ、その崩れは技の崩れを生みます。
また、かといってその水面を氷のように止めるとうまくいくかと言うとそれも違い、と言うかその試みは心と言う揺れ動きやすいものに対してやるのは不可能で、
正しくは水月が崩れない状態が結果的に現れるようにする、なのです
何やら禅問答的雰囲気になってまいりましたね笑
2.一人稽古と相対稽古と言う両輪
さて、自分ではわからないと言いましたが、それは一人稽古の否定と言うわけではないのです。一人稽古は大変大事です。
どういうことかと言うと、一人稽古だけでは、技が出来るかどうかはわかりません。しかし相対稽古だけでは、内面にフォーカスする時間が圧倒的に足りません。
もちろん、その一人稽古中に見える内面も、ある無意識の状態が遅れて自分の意識に浮かぶものなので、内面の核そのものではないのですが、その見えてくる象にも、成田伝合気道にはこういう風になるといいよ的な指針があります。
例えば、「開き」です。
人は意図して動こうとすると、一旦「溜め」を作ります。動きとしてはこれは関節を曲げたり閉じたりするような動きです。
これはなかなか厄介な癖でして、一人稽古の体捌きにおいても、明確に感じ取れます。
これは、うまく動こうとした結果なのですが、体を開こうと意図した瞬間、注意深く観察すると間違いなく身体は閉じます。
反対に、努めて自然にかといっていい加減にはせず、それこそ水月が波立たないように注意深く体捌きをやった時、「結果的」に動き出しから開きと言う身体の状態が顕れます。
この状態が、意図せず常にできている状態で、相対稽古に臨んだらどうなるか?これは大変興味深いし、楽しみですね。
一人稽古は山登り、相対稽古は地図を見るなのでしょうかね?いや、景色を眺めるというニュアンスかもですね
まあここら辺は言葉遊びです
※2022/12/18追記
この水月について、さらに気づきがあったので、追記
自分を水面と見立てて、相手の中心を月と見立てて写す
これはつまり、写し目であり、受け入れであり、気発である。