ラプラスの魔の矛盾と合気(先)が取れない訳

1.高度な予測機能を持つ人間

人間は、五感で集めた情報をもとに無意識にものすごく計算して予測を行っている。
この予測は人間に、二足歩行を可能にし、会話を可能にし、キャッチボールを可能にし、また武術的には「気配」を読むなども可能にする。
訓練された人間は、敵の攻撃を避けたり受けたりすることも可能だ。
これは、練習の賜物であるが、人間が元々持っている予測機能を活用による技術と言っていい。

さらに、長じると
敵の攻撃を見てから反応するのではなく、敵の攻撃をしようと言う意思に対して、こちらがアクションをするという「先」と言うものが可能になる。

「先」が合気道においてとても重要なことは下の記事でも書いた。

しかし、敵のリズムを読み、「敵の動きに合わせること」と「先」の間にはかなり越え難い差があるらしい。
何故だろうか?

2.予測機能VS予測機能

相手の動き、または五感を総合して得られる言語化不可の第六感とも表現される気配、またそれによる予測。

残念ながら、これは相手も持っている。
予測機能VS予測機能による帰結は
ちょうどタイミングが合う衝突である。


非常にぴったりと合うが、これは実は自分と相手の合作である。
協力し合っているのである。
これは、拮抗状態も生むが、強引に動くと衝突をもたらし、この状態を近世剣術で相機と言う。

両者とも予測しあうなら、より計算力があるか、スピードがあるかパワーがあるかが、拮抗状態を破るキーになる。
つまり、スペック勝負である。

何か非常に機械的な話になっているように思えるが、上記の「五感を総合して得られる言語化不可の第六感とも表現される気配」、実はここも大事なので、これは頭に止めてほしい。

3.ラプラスの魔の矛盾

ところで、皆さんはラプラスの魔と言う思考実験をご存じだろうか?

簡単に言えば、ある時点までの宇宙の情報をすべて知りえたなら、そのものは完ぺきに未来を予測できるだろうと言う思考実験である。
つまり、人間の予測システムを極限まで理想化したものだと思えばいい

しかし、ラプラスの魔はあることが理由で、パラドックスになっている。


この動画の九分目から説明されているが、宇宙のすべてを知っていて、すべての行く末をしっているはずのラプラスの魔は、未来を変えられるということで矛盾を起こしてしまう。

上記動画では、もし、自分が存在する未来を予測していたら自己破壊をする。自分が存在しない未来を予測したら何もしないことと言うコマンドを未来予測マシーン「ラプラスの魔」に与えたとしたら、

自分が存在する未来を予想しようと存在しない未来を予想しようとどっちも間違っているという矛盾が発生するとあるが、

要は予測した未来を変えようとすると矛盾が発生するということである。

武術的には敵の攻撃が自分に当たるという予測を覆そうと避けるなどを行うなどが上記思考実験と重なる。

ラプラスの魔と違って、人間の能力は有限ではあるが、二人に能力差がないと仮定すると、これは相手に攻撃意思通りに打たせ切った上で、これを避けるのはかなり難しいと言える。

なぜなら、敵もこちらの気配を読んでルートを変更するからである。
いいですか?敵もこちらの気配を読んでルートを変更するからである。

大事なことなので二度言いました。
何か見落としがあると思えないだろうか?

それは敵はかなり、こちらの状態や思惑に反応するということである。

すこし、ラディカルな話になるが、敵は思ったよりこちらの意識に反応しているのである。

4.答えは自己認識(中心帰納)

さて、上記の動画の13分20秒目を見てほしい。宇宙のすべての情報を知っているはずの未来予測マシーンラプラスの魔は、自分自身の情報まで含めて、未来の予想ができない。もし、ラプラスの魔そのものまで情報として内包するラプラスの魔を作ろうとすると、無限にメモリーを増産しないといけなくなる。
以前下記の記事で書いた自己言及のマトリョーシカである。

自己言及のマトリョーシカ

ある場の「中にいる」なんらかの頭脳が例えその場の全てを知っていても、自己を含めた場の全ての行く末はわからない。
また、ただの観測マシーンになるならともかく、そこを改変しようという自意識が加わった瞬間、予測した未来とは違う未来が生じ予測を外してしまう。

つまり、ラプラスの魔は存在し得ないのである。

同様に武術においても、
敵のことを知り尽くした人間が敵の全てを読み切った上で、思う様、操ると言うのは

実は出来ないのである

では、そのようなことをやっているように見える合気は、どのように成し得るのだろうか?

実はこれはそもそも目的が間違っているのである。

一人の人間が、二人の人間の間で起こる相互作用を、あらかじめイメージした結果の通りに操ると言うのは合気のようでいて合気ではないし不可能である。

ちなみに、二人以上の人間の間で起こる相互作用を広い意味で「合気」と言うのかもしれない

結局のところ、これは敵の気配を感じて何らかの反応をしている自分と言うものを認識することで相互作用の波に乗ることが大事で、波を操ったりとかそう言う話ではないのである。

そして、その波は

どこに行ってもいいのである

ちなみに、「敵の気配を感じて」の部分は成田伝合気道における「気発」に相当し、「自分と言うものの認識」を「中心帰納」に相当するものと考える。

敵と自分の相互作用に気軽に沿っていくが正解かもしれない。

そのようなことを成田先生もおしゃっている。

相互作用の中における自意識との闘いが合気道なのかもしれませんね

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